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生き残っていく知恵だろう

 80歳をひかえた年齢としだからかもしれないが、いつも野生に生きる鳥たちから多くを学んでいる。たかが鳥である。種類によって、それぞれの習性には大きな違いがある。だからこそ、いまさらであれ、ぼくには学ぶ価値がある。

 基本的には、やはり持って生まれた特性が優先する。とりあえず、身体からだの大きいヤツは有利だ。それは人間にもいえる。人間の場合、身体からだばかりではない。“知恵”もまた、身体の大きさ、腕力に匹敵するほどの要素だろう。

 人間社会は、子供のころならともかく、ある程度の成長を果たしてからは、身体の大きさ、あるいは、それにともなう腕力の強さよりも知恵のほうが大切になる。社会へ出るとなおさらだ。悪知恵を働かせるヤツも少なくない。

 人間社会の多くは知恵が優先している。知恵は、必ずしも学校の成績に比例しない。持って生まれた能力だろう。人生は、知恵以上に運が左右する。野生を生き延びていく上でも、知恵は腕力以上に必要だし、運に大きく翻弄されてしまう。

 野生にも知恵は欠かせないが、運の強いヤツにはかなわない。運はそれを望んだり、あるいは、努力で身につくわけではない。ただ、それを補うのが知恵のようだ。

 鳥たちも、同じ種類でも個体によって性格は千差万別、きっと、人間と変わらないほどいろいろかもしれない。おのおのが人間同様に知恵を働かせ、だが、多彩な運に支配されているらしい。

 特にこの4、5日、ドバト(カワラバト)たちにまとわりつかれ、彼らを眺めていると、カルガモとは大きく違い、カラス(ハシブトガラス)たちとはまったく別の生きもののように行動が異なるだけにとても興味深い。

 ぼくが暮らすあたりでは、ドバトの数が多い。キジバトもけっこう目にする。ドバトはたいてい数羽から数10羽で行動している。大胆なようで、とても臆病だ。いつも、たいていペアでいるキジバトのほうが腰が座っているのがわかる。

 ドバトが群れで採餌している中にキジバトが混じっていたりする。ドバトたちが、突然、いっせいに逃げ出してもキジバトは残る。附和雷同しない。きっと自分なりの判断なのだろう。

 常にキジバトの定見で行動する。だからといって、キジバトがいつも大胆なわけではなく、逃げるときは逃げていく。野生の鳥たちが何を判断の基準にしているのかはわからない。とにかく、野生では自分の命がかかっている。

 毎朝、会うカラスたちは個体によっていろいろだが、おおむねぼくへの警戒心は強い。最近、なついてくるドバトたちは、やたらぼくの近くに寄ってくるが、些細な音にも敏感である。たとえば、カラスがちょっと鳴いただけでいっせいに飛んでいってしまい、戻ってこない。

 カルガモにしても、危機管理には敏感で、ぼくを追いかけて泳いでくるのに、場所によっては決して寄ってこない。石を投げられたりした体験で危険を察知しているのだろう。

 同じ種類のカラスでも、カモでも、ハトでも、それぞれの行動は個体によって微妙に違う。持って生まれた性格だろうし、運よく生き延びてきた体験からの知恵を働かせているのだろう。

 そんな鳥たちに人間どもがどのように見えているのか、教えてもらいたいといつも思ってしまう。

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