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冬めきて(14)

 また、まともに眠れない夜が続いていた。
 新年度早々、法学部の掲示板に張り出された、「以下の者は学費未納により抹籍とする」という掲示の中に自分の名前を見つけていたからである。
 学費は三期に分けて払うことになっている。一期分の半額は入学金といっしょに入学時に払っていた。だが、二期分と三期分はまだ経理部に入金していない。忘れていたわけではなかった。日々の生活に追われてしまい、あとまわしにせざるをえなかったのだ。
 1年生のときの二期分だけでもなるべく早くなんとかしたかった。抹籍になどなったら、姉たちに顔向けできない。学費納入の期限までさほどの時間はなかった。連日のアルバイトで身体からだは疲れていた。それでも、学費のことを思うとなかなか寝つけない。明け方、ようやく寝ても深くは眠れない。それでも身体からだが持ちこたえたのは、やはり、若かったからだろう。
 高校の2年生になったとき、姉から、卒業したらどうするつもりなのかをかれた。まだ、先々の進路など考えていなかった。何も考えていないと答えながら、いつもサングラスをかけてクルマで帰ってくる先輩を思い出し、就職してから大学へ進むかもしれないと、とってつけたように答えた。
「よしな。働きはじめたらそれっきりになるよ」
 バスで1時間ばかりかかる、電車の駅がある町の信用金庫に勤めはじめたばかりの姉が怖い顔でいった。
「だけど、西方のミツタケさんは、働いてから大学へいってるだろ」
 決まってサングラスをかけて田舎に帰ってくる先輩にできたのだ。自分にできないわけがない。
「あの人は、四男坊だからね。あんたは長男だから無理だよ、この家の後継ぎだしね。それに性格的にも無理だと思う」
 社会人になった姉は容赦なかった。その日、姉は化粧をしていなかったから休みの日だったのだろう。
「応援するから、まず、大学を受験してごらん。わたしの給料じゃ、まだ、全面的な応援は無理だけど」
 意外な言葉だった。子供のころから、いつも勝ち気な姉に守られてきた。姉は、ひ弱な弟の、いつも保護者だった。
「駄目だったら、それから就職を考えても遅くないだろ。そのときは、宇佐美の、司郎さんが、あんたの働き口くらいなんとかしてくれるよ」
 翌年、その宇佐美が夏休みに短い帰省をしたとき、前の年の姉のことばを思い出し、もしかしたら、進学できるかもしれないと明かした。
 夏休みではあったが、たまたま部活で出ていた学校に宇佐美が現れた。女子生徒たちは、「あっ、部長……」といったきり立ちすくんだ。それほど、大学生になった宇佐美は輝いていた。
「おれはもう卒業してるんだ。なあ、篠塚、いまじゃ、こいつが部長だろ」 
 たしかに、最初は美術部の部長に祭り上げられた。卒業していく前任者である宇佐美の意思でもあった。しかし、4月のうちに、顧問の教師に申し出て部長を辞退した。同級のもうひとりの部長候補に譲ったほうが、家の格からいってもふさわしい。理由をいう必要はなかった。顧問の教師のホッとした表情を見て、申し出てよかったと思っていた。宇佐美の耳にも届いているはずだった。
「おれ、絵に自信がないので部長を断ったんです」 
 あわてていった。教室には気まずい空気がよどんだ。
「なんだ、そうなのか。知らなかったよ」
 そのあと、しばし、彼から東京の退屈な生活のようすを聞いた。帰り道でふたりきりになってから、進学できるかもしれないと明かした。
「それなら、おれのいる大学を受けろよ。面倒をみてやるぞ」
 宇佐美はそのときもはっきりいった。
 進学する気にさせてくれた姉は、陰で両親にも話を通しておいてくれていた。
 受験はつぶしがきくという法学部だけに絞った。それだけは渋る姉に譲らなかった。姉の負担に配慮したからである。
 受験するだけでも大変な金がかかった。受験料から入学試験のために上京する交通費、入学試験前日の宿代にいたるまで、「あんたは勉強だけしていればいいから」といって、費用は姉と母が用意してくれた。
 入学試験で家を離れるとき、姉は笑顔で、「もし、落ちたら浪人すればいいよ。なんとかするからね」といってくれた。受験に失敗したらいさぎよく家業を継ぐ覚悟もできていた。
 それだけに、合格できたときの喜びは大きかった。それも前年、宇佐美が進んだ大学である。東京の人間になれるのがうれしく、何よりも田舎いなかから出ていけるのが夢のようだった。

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