冬めきて(22)
何日も食事を摂っていなかった。金がなくなったときの常食だった食パンのミミも底をついていた。
パン屋がサンドイッチを作るときに切り落とした、いわば、捨てるようなそのパンのミミも、もちろん、いくばくかの金を払って買う。かたくなったらフライパンで熱した油をからめるが、その油だっていつもあるとはかぎらない。なければそのまま食べる。
だれに教わったのかは覚えていない。東京での生活がはじまってしばらくして、アルバイト先で仲間から休憩時間のときにでも教わったのだろう。
東京のパンの味が、捨てられるはずだったミミでさえ、最初のころは新鮮で、美味だった。しかし、うまいとかまずいとかよりも、生存のために喉の奥へと送りこんでいるうちに、すぐに味がなくなった。
あのときは、何日、まともに食べていなかったのだろうか。若かっただけに空腹がなおさらこたえた。2日後には前にも仕事をしたことのある印刷会社でのアルバイトが決まっていた。そこでのアルバイト代は仕事が終わったときに支払われる。
ただ、会社へいけば、昼飯と、もし仕事が夜にもかかれば、社内の食堂で同じグレーの作業服を着た夜勤の印刷工の人たちにまじって夕食の定食を食べることができた。黒っぽいスーツに白いワイシャツ、ネクタイをして食堂へ入ってくるのは営業部の連中だった。格安の食事代はアルバイト代から差し引かれるものの、食事には確実にありつける。
何も食べないでいて明後日まで乗り切れるだろうか。仕事ではけっこう身体を使う。アルミの食器に盛られたその日の昼飯まで仕事に耐えられる体力を維持できるかどうか自信をなくしはじめていた。バス代もなかったから、その会社まで小1時間も歩いていかなくてはならない。とても翌々日の昼まで水道の水を飲んでしのぐことなどできるとは思えなかった。
夜になって、もう意地を張るのはやめようと決めた。とにかく食べることだ。なんとしてでも空腹を満たさなくてはならない。いざとなれば、ゴミを漁ることになるのだろうか。空腹の前には、たいていが苦もなくできる。矜持も尊厳もどれだけ脆弱なものかがわかる。
ゴミをあさる前に、いま、東京で頼れるのは先輩の宇佐美司郎しかいなかった。二度と会うまい、かかわりあうまいと決めたはずの彼に、この際、まずは金を借りて食事にありつこうとした。決めてしまうと迷いはなかった。
大学の構内にはいくつものセクトのタテカンと呼ばれる巨大な看板がそこかしこに林立していた。警察の機動隊が学内に入り、大学を占拠していた学生たちを排除し、さらに機動隊に守られてなんとか入学試験がおこなわれたばかりだった。そして入ってきた新入生たちが目立つ大学は、たしか次の闘争に入っていたはずだ。夜中でも大学の構内には人がいきかっていた。だから、宇佐美も大学のどこかにいるはずだとの確信があった。
校内へ入り、なんとか、宇佐美を探して借金をしようと決めた。彼をつかまえて、もし、彼の所属するセクトに加われといわれたらそうするつもりだった。空腹の前にはたいした妥協ではない。
高校生のころ、姉に買ってもらったマフラーを首に巻き、アパートを出た。桜は散っていたが、夜はまだ寒さが残っていた。
ドアの鍵をかけていると、背後から「こんばんは」と声をかけられた。隣室の女だった。これまでも、アルバイトで夜遅くなったときなど同じ地下鉄に乗っていたらしく、前後してアパートのドアの前でいっしょになり、何度かあいさつをかわしている。銭湯帰りの彼女と出会ったこともあった。身なりは質素でほとんど化粧っ気もないが、ひと目で学生ではないとわかる。それでいて、いかにも都会の女らしいはなやいだものを感じさせる、いくつか年上の女だった。
「これからお出かけなの?」
女はバッグから自分の部屋の鍵を出しながら、気さくにいった。
「すいませんが、五十円貸してもらえませんか。来週には返しますから」
返事のかわりに、挨拶しかかわしたことしかない隣室の住人に自分でも意外なことを口走っていた。
「いいけど……。どうして? どうして五十円なの?」
突然、五十円を請われて女もとまどったらしい。
「ラーメンを食べたいんです。しばらく何も食べていないんで……」
そういいながら、なぜ、自分がそんなことをいっているのか不思議だった。
「だって、お店はもうみんな終わっているわよ」
女はバッグから出した財布を開き、硬貨をいくつか出していった。
「いや、少し離れているけど、大通りのほうに朝までやっている店があるんです」
女は、差し出した硬貨を手のひらに載せていた。
「五十円あれば……」
そういって、五十円硬貨ひとつだけをつまむと、「来週には必ず返します。すいません」と何度も頭を下げてからラーメン店に向かった。
見つかるかどうかわからない宇佐美を探す手間が省けてホッとした。空腹感も消えていた。