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冬めきて(3)

 名古屋の美涼にもいい分があった。
 写真をいくら送ったって、お父さん、一度もメールくれないんだから張り合いがないわ。それに、お母さんに送っておけば、ふたりで仲よく見られるでしょう。
 そんな電子メールがきていた。
 たしかに、美佳に孫の写真が送られてくれば、無理にでも食事のときに見せられ、無言になりがちな老夫婦になんらかの会話も生まれた。
 ますます、「おれのケイタイはもういらないから解約してくれ」といい出しかねた。女たちから、「お父さんがひがんでる」などと誤解されたくないからだ。意固地になっているのではない。ただ、「ほんとうにもう必要ないんだ」と弁解するのも面倒だった。
 美佳がスマホの機種を変えるときにつきあわされ、自分も新しい製品に変えた。年金生活だし、スマホなんか使わないのにもったいないなと思いつつ、妻と、また、口論になって疲れたくないので黙々と従った。そして、いつも気がつくとバッテリーがカラになっている。
 携帯電話を持つのをやめていたら響子からのメールも届いていない。きょうも、きのうと同じ変哲のない、そして、穏やかな一日になっていたはずである。もっとも、美佳は朝早くから名古屋へ向かえず、ため息をつきながらの日常の繰り返しだったろう。
 しかたないか……。
 電車の窓外に見える、季節はずれの羊雲に低い声でつぶやいた。
 定年を迎えてからこちらは、響子とまったく連絡をとりあっていなかった。50代のころでも、いつ、会ったのかさえ判然としない。たぶん、20年近い空白があるはずだ。住所も知らなかったので、定年のとき、あいさつのはがきも出していない。スマホに登録してある携帯電話の番号だけが、彼女とは唯一のつながりだった。
 同じ大学の卒業生同士とはいえ、年を経るほど、響子とはその程度のつき合いでしかなくなっていた。若いころ、肌を重ねた夜があったものの、それだけの、いつ、消えてもおかしくない、かすかなつながりだった。
「つきあい」と呼ぶには気が引けるほどの、響子とのつながりは大学を卒業してからはじまる。たしか、卒業の翌年だった。
 仕事で徹夜に近い状態が何日か続き、会社へ戻る前にいつも息抜きで利用しているマロニエという喫茶店へ入った。時間が悪かったのか、近くの大学の学生たちで混んでいた。入り口に立って店内を見渡し、席を探していると、突然、声をかけられた。
「篠塚くん、篠塚くんでしょう?」
 声のほうへ顔を向けると見知らぬ女が立っている。自分が呼ばれたのには違いない。だが、「くん」づけで呼ばれる心当たりが、女にはなかった。もしかしたら、高校時代までの知り合いかもしれない。郷里につながる女たちをあれこれ思い出してみた。しかし、顔は化粧で様変わりしているとはいえ、女につながる知り合はだれひとりとして重ならない。
「法学部の篠塚くんでしょう? 経済学部の宇佐美さんの後輩だった……」
 たしかに自分は篠塚で、宇佐美は高校時代の先輩である。ということは、大学の知り合いだろう。それでも女がだれだかわからなかった。
「ほら、同じサークルだったじゃない。ゲンビケンよ」
 同じサークル? ゲンビケン?
 ウェートレスの案内であいた席へ案内された。女もついてきて前の席に座った。
 たしかに、大学入学直後の短い期間、現代美術研究会というサークルにいた。そういえば、現代美術研究会をそう呼んでいる男がいたのを思い出した。
「ゲンビケンって、現代美術研究会のことですか?」
 コーヒーの注文を終えると、あらためて女にいた。彼女はほかに自分の席があるらしく、ウェートレスと笑顔でうなずき合っただけで注文はしなかった。
「そう、ビケンの篠塚くんでしょう?」
 女の厚かましいほどのなれなれしさに圧倒されていた。
「ええ、たしかに篠塚ですけど……。あなたは?」
「前田よ。文学部の前田響子。おぼえてないの?」
 名乗られてもわからなかった。
「サークルには出ていなかったから……。申し訳ない」
 1年生のときはたしかに現代美術研究会のメンバーのひとりだった。だが、サークルの活動にはまったく参加していない。2年生になってからはさらに遠のいている。
「新人歓迎会のコンパでとなり同士だったじゃない。それも忘れたの? ひどいなぁ。あのとき、知らない人ばかりで心細かったから、ずっと篠塚くんとだけ話していたのに」
 記憶がかすかによみがえった。
「前田さん、って……鉛筆画を描いていた人?」
「あっ、思い出してくれた? 篠塚くんも鉛筆画を描いていたでしょう。鉛筆画を描いているふたりがとなり同士で座るなんてなにか縁があったのかな、っていったの、篠塚くんのほうよ」
「それは……おぼえてないなぁ……」
 たしかに現代美術研究会の新入生歓迎コンパには出ている。あの夜のことは、はっきりと思い出せる。大学へ入学直後の数ある思い出したくない記憶の、とりわけ思い出したくない記憶だったからである。

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