散骨でかまわないけど……
お葬式の形の変化にともない、お墓に対する考え方もすっかり変わって久しい。理由は割愛するが、30年前からそれらの情報に関心を寄せるようになった。
自分は散骨だと決めたのも20年以上前である。女房も異は唱えなかった。だが、ある日、女房からいわれた。「散骨でかまわないけど、お願いだから、海にだけはまかないで! わたし、泳げないから……」と——。真剣だった。
そんな戯れごとをある会合でしゃべった。それを聞いた人——10歳ほど年長の、長兄のような親しみを寄せていた、ぼくの人生の恩人——があわてた。
恩人はことのほかイタリアが好きだった。年に二度、秋と春に長めの休暇を取り、奥さんを同伴し、ときにはお嬢さんもともなってイタリアを旅していた。
恩人にとっての外国はイタリアだけといってもよかったろう。会社への往復のクルマでイタリア語も勉強した。ご本人は否定していたが、日常会話ならできると奥さんから聞いている。
昨夜のテレビで、いまでは深海への散骨もあると知った。それを見て、女房と恩人を思い出して頬がゆるんだ。女房が、泳げないから海にだけは散骨しないでくれと懇願した話を聞いた恩人があわてたのには理由(わけ)があった。
「オレが死んだら、遺骨のひとつまみでいい。フィレンツェの川へ流してくれって女房にいってあるんだ。すぐにとめないと」というのである。恩人も泳げなかったらしい。
散骨の場所が深海へとなると、泳げたとしても絶望する。だが、もう、死んでいるからジタバタすることはないはずだ。ただ、泳げないと、それほど水が怖いのだろう。
深海葬は船のチャーター代を含めて100万円ほどかかるそうだ。遺骨など、しょせんは物体でしかない。適当に捨ててくれればいいというのがぼくの本心である。
死んだあとまで安く上げようとする貧乏根性が、思いどおりにならない時代になっている。