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パーカーはアメリカの象徴だった

 久しぶりにパーカーのボールペンの芯を買い、使いなおして、幼いころ、「パーカー神話」らしき妄想が日本にあったの思い出す。この国が戦争でアメリカに叩きのめされ、占領されていたのは子供心にもわかっていた。

 都心ではアメリカ兵が徒党を組んで歩いていた。兵隊同士のケンカを取り締まるためのMPたちの姿も珍しくない。実際には見てはいないものの、夜、東京駅では進駐軍の兵士たちが、よく、ケンカしていたという。

「あいつらのケンカは、まず、蹴りから入るからな」と、教えてくれたのは父だった。だいぶたってから西部劇映画のケンカのシーンを見るたびに、話に聞いていたケンカとはずいぶん違うなと思ったものである。

 アメリカ人は豊かだった。瀟洒な広い家に住み、芝生の庭ではカラフルな洗濯物が風に揺れていた。東京育ちの女房も洗濯物の大きな白いシーツがまぶしかったという。

 中央線などの国電には、2等車と3等車があり、アメリカ人などの外人さんは2等車だったと記している。もちろん、日本人の庶民は3等車両である。

 それだけに、1965年ごろ、貧しい外人さんを大学へ向かうバスの中で見かけたときの驚きはいまも鮮明である。彼はぼくが通っていた大学の、報酬の安い非常勤講師だったのかもしれない。

 敗戦から20年たっている。街で“貧しい白人”を見かけても不思議ではない。だが、アメリカは豊かな国だったはずだ。父の世代かもしれないが、パーカーの万年筆やボールペンは、その豊かさを謳歌するアメリカの象徴でもあった。

 自分はパーカーを避け、その後、ドイツのモンブランやペリカンの万年筆を愛用したのも、アメリカの豊かさへの嫉妬があったのかもしれない。

 あるときからクロスやシェーファーの万年筆も愛用した。だが、使っているのは、担当していた漫画家さんからいただいたこのパーカーのボールペンだけになってしまった。

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