ひと休みするだけのはずだった?
朝の散歩で、何気なく目をやった公園の金網に1匹のカナブンがつかまっている。生きてはいない。すでにこと切れていた。この虫が正式にはどんな名前かは知らない。“カナブン”などいうのは俗称のような気がする。もしかするとコガネムシかもしれない。
子供のころから、こうした甲虫を、ぼくらはまとめてカナブンと呼んできた。家にもどり、検索してみたら、カナブンという甲虫は存在し、コガネムシとは異なるそうである。だが、すべてコガネムシの仲間だという。
もう一種、ハナムグリという近縁種もいるそうなので、ぼくたちが、子供のころから、一括して、カナブンと呼んできたのも、あながち、間違いではなかったのかもしれない。もう、名前なんかどうでいい。
公園はクヌギを主体とする市の保存林に指定されてた雑木林に隣接している。きっと、となりの林の腐葉土から出てきたのだろう。しかし、なぜ、金網につかまって死んでしまったのか、それがぼくには興味深い。まだ、飛ぶつもりだったように思えるからだ。
とはいえ、この虫の寿命がきたのだ結論づけるしかあるまい。人間のように、なんらかのやっかいな病魔におかされたわけではないのだろう。しかし、このカナブンは、もっと、生き永らえて飛びまわるつもりだったらしい。
疲れたのでちょっと休憩するつもりで金網につかまったら死んでしまった。それだって、理想的な最期じゃないか。ぼくも、そんな終わりかたをしたいものだと切に思う。多くの友人たちの訃報を聞かざるをえない年齢になると、自分がどうやって終わるかが気になる。
散歩の帰路、そう、時間にしてせいぜい1時間ばかりのち、金網にカナブンの死骸はもうなかった。きっと、鳥の胃袋の中におさまったあとだったのだろう。死してからも役に立っている。一個の生きものとして自然の輪廻というか、生死の循環に役立っている。それもまた、悪くない最期だ。