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いまも江戸時代を生きる

 池波正太郎を国民的な作家と呼んでも過言ではないだろう。『鬼平犯科帳』をはじめ、数々の作品が民衆の心をとらえてきた。池波の数々の名作のひとつに51歳で連載をはじめた長編小説『真田太平記』がある。

 この中で、池波は窮地に陥ったときは、まず笑ってみろと何度も説いている。「そんなものか」と思い、「なるほど」とも思いながら読んだ。“笑い”が持つ不思議な力である。

 タイは「微笑ほほえみの国」とも呼ばれる。窮地に陥っても「笑いながら闘う」のがこの国の人々である。心の中では泣いていても笑顔で逆境と闘う。タイの穏やかな国民性を育んだのは、微笑みのこの国らしい覚悟だったのだろう。

 最近、江戸時代の庶民の姿を描いた文章に出逢った。不幸に直面しても、江戸の庶民は高笑いしてやり過ごしていたという。「笑い飛ばす」わけだ。不幸が自分の身に降りかかったとしても笑い飛ばしていたのである。

 あるテレビ番組で、日本はいまだに江戸時代から続いているとの説を唱えた学者の方がいた。その説を聞いて目が覚めた思いだった。異を唱えた中に明治維新の影響の重さを主張する方がいた。ある外国人女性の学者は、「昔はよかった」の懐古に過ぎないと一顧だにしなかった。

 現在いまの日本の特殊な文化の根っこが江戸時代にあると聞いて、「そうだったのか」と、ぼくにはすべてがつながった。いまやしだいに失われている日本らしさであるが、日本人の気質の根源はたしかに平和を謳歌した江戸時代にある。

 明治維新で江戸の文化は瓦解した。しかし、人々の気質は残った。明治維新のために天国から地獄へと追いやられたぼくの祖母は、明治維新を決して恨まず、よく「ご維新」と呼んでいた。日本橋で生まれ育った父は、どれほどの不幸や不快なめに出逢っても決して怒らず、高笑いですませていた。

 江戸の庶民は、きっと父のように自分の不幸をも高笑いでうっちゃっていたのだろう。貧しかった庶民たちは、笑いの持つ底力をちゃんと心得ていた。

 浅草で生まれた池波正太郎は、つい、先ごろまで江戸だった土地で育っている。笑いの効用について、薩長土肥の、維新の功労者たちにはわからない江戸の人情のなかで生きた。

 近代日本を語る上で、たしかに明治維新は無視できないだろう。維新で日本は近代化を果たし、そして、太平洋戦争で滅んだ。日本の真の近代化は1945年の敗戦からはじまる。80年たったいまも海外の大国からの圧力に対してはひたすらの忍従が続いている。

 これからも江戸時代の庶民の精神を引きずっていくのが正しいかどうかはわからない。微笑みの国の人々ほど確固たる覚悟ではないからだ。それでいて、東京でも地方でも、いまだに江戸時代を引きずっているのは島国らしさだろう。

 支配者たちの論理である明治維新の影響もいまだに続き、日本の支配層にあからさまに食い込んでいる。しかし、多くの庶民は笑い飛ばし、これからも新しい歴史をつむいでいくだろう。

 江戸という穏やかで、豊かな時代を持った日本という国の未来には、やはり笑顔で期待したい。なんとも多くの犠牲者を出した悲しい太平洋戦争で痛手を受けたのは明治維新であって江戸の文化ではない。江戸時代はいまも終わっていないのである。

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