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バカはバカなりの戦い方がある
【はじめに】
僕はちょうど明日で57歳になる。
言わば初老である。
しかし世の中は人生100年時代と標榜し、ある意味僕は折り返し地点を折り返したばかりである。
さて、話は変わるのだが、僕の学歴と言えば、高校は工業高校の機械科、偏差値43程度、そして大学には進学せず自動車整備などを教える短期大学に進学した。
偏差値は驚きの38程度。これって漢字で名前を書ければ合格できるレベルと考えて貰っても過言ではない。
なぜ、工業高校から自動車工学に進んだかと言えば、親の決めた進路であり、そこに自分の意志など全くなく、言われるがままに進み言われるがまま20年の人生を送っていた。
親は何故、自動車整備の道を僕に勧めたかといえば、親の世代は高度成長期のど真ん中であり、父親の兄弟2人が自動車整備工場を経営し財を成していたからである。
その親のレールに乗って偏差値の低い学校にいると、ろくに勉強や苦労せずとも日々楽しく過ごせるのである。ただ親が引いたレールであるが故、親からしたら出来のいい息子であったのは間違いないのだろう。
【第一章】社会人としての第一歩
それではここから本題に戻るとします。前述のような学生生活を送っていた僕がどんな職業に就いていくのか?気になりませんか?そこを詳しくここに書いていきましょう。
親のレールに乗って当然自動車整備士を目指すのが妥当な就職先ですが、親が選んだ会社はアルプス電気(現アルプスアルパイン)でした。これもまたいきなりなんで?って感じですよね。一応トヨタ自動車(販売店)も受け、さらにアルプス電気も就職試験を受け、両社ともに合格しました。ちなみにアルプス電気は親のコネ入社です。
結局私はアルプス電気を選択し、入社することになりました。
【第二章】自分の意志と挫折
しかしここで私は事件を起こします。学校を卒業し帰る日が決まり最後の夜に、当時付き合っていた彼女(今の嫁)の家で一晩を過ごし明くる朝、その彼女が着いて行くと言い出したのです。
今思えば少し待ってもらい仕事が落ち着いたら結婚なりを考えれば良かったのだが、そこは若気の至り、駆け落ち同然で何かフラフラどこに行くでもなく一週間ぐらい行方不明になっていました。
行く先もなく、当然僕の実家では大騒ぎになっていて、どこにも行く宛もなく、彼女の実家に転がり込んだのです。その後の出来事は割愛しますが、今思えばもう少し冷静に対処できただろうと思います。
これが初めて親の敷いたレールから外れ、僕の人生の大きな分岐点となります。
さて、そんな事件もあり彼女の地元で就職先を探すことになり、すぐに東芝電興(東芝の関連会社ではありますが、末端の会社で映画館の設備を作る会社です)と言う会社に就職することができました。この会社はすでになくなっていますが、この会社が社会人のスタートです。
この会社で機械とは関係ない電子回路や弱電を学んだ事が、僕の現在の礎になっていると言っても過言ではありません。
しかし、これも長くは続きません。この頃には彼女と結婚もし、嫁の実家の近くに住んでいたのですが、2年後に東京への異動が決まったのです。それでも嫁は文句も言わず僕に付いてきてくれましたが、そもそもこの東芝電興という会社の給料が驚くほど安く、記憶では手取りで12万くらいだった気がします。そんな給料で東京で生活するって当時でも相当な無理がありました。当然嫁も共働きでなんとか生活しているものの、これは無理だと思い、東京で自動車整備工場で成功していた叔父の元で自動車整備士として仕事をすることになったのです。
ただ、整備士という仕事は3Kそのものです。体力のない僕には半年ほどで身体を壊してしまい仕事を辞める事になってしまいます。東京では暮らせないと判断した私は、嫁の地元に帰ると言う選択肢を選び、その準備を進めていた時、嫁が事務で働いていた会社でエンジニアの募集をしているとの事で、嫁に「旦那さんうちで働かないですか」との誘いを受け、面接に行くとそこには色々と楽しい世界が広がっていました。
そこは本当に小さな会社でしたが、テレビの電波障害の調査やCATV(難視共聴など)を扱う会社です。ここで私は無線の知識を習得し、無線の面白さを知りました。
そしてこの時、子供も授かり順風満帆と思いきや、会社が倒産の危機に直面し(社長が会社資金を私的に使っており、社会保障費などの滞納が発覚)、ここで会社を離れる事になります。
しかしながら、当然次の仕事も無いままと言うのでは家族を路頭に迷わせる事になります。すぐに次の仕事を探し始め、運よく無線系の仕事でさらに嫁の実家の地区が選べると言う幸運に恵まれ、その会社にお世話になることとなりました。
【第三章】運も実力のうち
ここからは会社名は伏せて話しますが、無線系の仕事の会社です。大手電気部品メーカーから社内ベンチャーで興した会社で、資本も親会社と大手通信キャリアから入っており、非常に安定した会社です。社内ベンチャーと言えどベンチャー気質の社風であり、働けば働くほど給料は上がって行きました。
前述した通り、回路や弱電、そして無線の知識がここで活かされます。この好きな事が仕事に出来る幸せな事はなかなか無いんだと思います。当然仕事が楽しければ頑張れます。
これが僕の「バカはバカなりの戦い方」です。
30歳で入社し当時の年収は500万円くらいだったと思います。その12年後には年収が1,000万円を超えました。正直、上司に恵まれたと言うのも年収をあげる大きなファクターになりましたが、ここでは戦い方が重要だったのです。戦い方については別途NOTEで書いて行くので割愛します。
この会社では、無線のいろいろなシステムの立ち上げに参画させてもらいました。古くはPHSやCDMA One、そして第三世代携帯電話、第四世代携帯電話、さらにはLPWAシステムとずっと無線畑を歩かせてもらい、国家資格も、電気通信主任技術者、一級陸上無線技士、一級電気施工管理技士、そのほか工事担任者(総合種)や技術士補など通信に関わる資格を取得することが出来たのも好きだからこそなのです。
ただ、会社はいつまでも楽しい仕事はさせてくれません。当然年齢を重ねると役職が付き、管理職の名の下、現場での作業はほとんど行えなくなってしまいます。
しかし、バカな僕はまたここで戦い方を変えます。それは転職と言う新たなチャレンジです。正直定年間近で普通にこのまま働けばそれなりの給料でそれなりの待遇で定年を待つ事だって出来るのです。ただ、僕はマグロと同じ回遊魚で、泳いでないと死んでしまうんです。55歳で転職なんて普通はあまり考えないと思いますが、僕はそこで自分が楽しく働ける仕事のため転職を決意しました。
【第四章】自分の戦い方を覚える
正直、「バカはバカなりの戦い方」って何?って思うでしょう。それは、まずはがむしゃらに、そして成功体験を積み上げる事です。成功体験は困難であればあるほど良いと思いますが、小さな成功体験が、いつか大きな成功を掴み取るための経験として生きてきます。
世の中には無限にチャンスの芽が落ちていて、そのチャンスの芽を見つけ花を咲かせるために、毎日水をやり、陽をあて、土を替える努力が必要です。数日怠けるだけで花は枯れてしまうかも知れません。ただひたすらに花を咲かせる努力をする事が重要なのです。
僕は戦い方は二種類あると思っています。一つは子供の頃から努力をし、良い学校に入り良い会社に勤めること。もう一つは僕のような戦い方です。
多分前者が理想的だし手堅い戦い方なのだと思います。でも、僕のような戦い方でも、「開成高校から東京大学」と絵に描いたようなエリートと肩を並べて仕事が出来ていますし、無理な仕事でも諦めない泥臭さは僕の方が大きなパフォーマンスを発揮できたりします。
今では、有名大学新卒でもなかなか入れない人気のグローバルな大企業で働き、後進育成をしながら新規プロジェクトに参加しています。
給料も転職により大幅にアップしました。でも、冒頭述べたようにまだ人生折り返し地点です。これで終わりではなく、次のステップのため新しい芽を日々アンテナを張り探しています。
【最終章】若者に伝えたいこと
みなさん、今の現実と将来の不安で身近にある芽を見逃していませんか?そして、出世する人は小さい時から努力して良い大学を出た人だけと思っていませんか?それは単なる現実逃避です。周りを見てみてください。そこに「芽」があります。
そして、「バカはバカなりの戦い方」があるんです。視点を変えるといろいろなものが見えるし、そして違った側面も見えてきます。
最後に、「なぜこの仕事を選んだのかって?」それは色々な選択肢・分岐点の中で自分のやってみたい、そして楽しいことが出来そうだからです。そして楽しいかどうかはその会社で決まっているものではなく、自分が楽しいと思うことが始まりです。