【ショートストーリー】
入学式が終わって、しばらく経った梅雨に入る少し前の季節だった。
その日の授業が全て終わり、部活にも入っていなかった僕はそのまま帰っても良かったのだけど、なんとなく屋上へと向かっていた。
僕の通う高校は屋上には入ってはいけないことになっている。
一度は屋上で青春というものを感じたい。でも、目立たずに平穏に高校生活を送りたい気持ちも強かったので、行くだけ行って「やっぱり鍵かかってるか」なんて独り言を言いながら帰る予定だ。
最後の階段をゆっくりと上がり、屋上への扉のドアノブに手をかける。
開いた。
勢いのまま片足が屋上を踏みしめる。
急いで引き返そうと目線を上げると、屋上には僕以外にもう一人の姿があった。
女子生徒だ。大人じゃないことにほっとする。
こちらに背を向け、フェンス越しに世界を見ている姿。
入ってはいけない屋上に、僕より先に人がいたからだろうか。
それとも単純に彼女に興味を持ったからか。
僕の足は再び屋上に降りたち、彼女の方へと歩きはじめる。
もうすぐで彼女の隣に着くという時、
「空って、どこまでが空だか知ってる?」
彼女が振り返りながら僕に聞いた。
「―っ」
「君の影がね、私のところまで届いたの。それに先生なら、扉を開けた瞬間に怒鳴り声、でしょ?」
僕はまるで金縛りにでもあったかのようにその場で固まり、彼女の声を聞くしか出来ない。
「君のその上履きの色は新入生だね。入学してまだそんなに経ってないのに、こんな所にいていいの?」
「それは、先輩も、でしょう。」
彼女の上履きの色は青色で、どうやら2年生らしい。
「あはははは!確かに!」
はじけたように笑いだした彼女は再びフェンス越しの世界に目を向け
「あの鳥たちが飛んでるのは空でしょ?向こうの方に小さいけど飛行機が見える?飛行機は空を飛んでいく途中で宇宙にはみ出したりしない?例えば、誰かの手を離れた風船は空を飛んでどこまでいくの?どこまでいってもそこは空なの?」
彼女が何を言ってるのかよく分からない僕がバカなのか、よく分からないことを言ってる彼女がバカなのか。
僕は携帯端末を取り出し、空がどこまでか検索しようとして、止めた。
彼女は僕に聞くだけ聞いたくせに、あれからずっと嬉しそうにフェンス越しに世界を見ている。
隣に並んで同じように世界を見てみたけど、その世界は新鮮ではあるものの僕の知ってる世界で、何がそんなに嬉しいのか分からなかった。でも、きっと僕が知ろうとした答えは彼女の知りたい答えとは違うのだということは分かった。
そのあと、彼女に会釈をして屋上を後にしようとドアノブの手をかけ、振り返ると彼女が僕に手を振っていた。
だからだと思う。
僕はそれから何度も屋上に忍び込み、彼女の、答えが見つかりそうで見つけたら失くしてしまいそうな話を聞き続けた。
やがて夏休みを迎え、僕は帰宅部らしく学校には行かないまま、そのまま夏休みが明けた。
屋上に忍び込もうとドアノブを回す。
開かない。
窓から屋上を覗いてみたが彼女はいない。
そういえば、忍び込むと言っても僕が行くときにはいつも扉は開いていて、すでに彼女はそこにいたことに気付く。
扉の前にしゃがみ彼女を待ったけれど、その日彼女は屋上に来なかった。
翌日、少しの不安と不満を抱えながら僕は屋上へ向かった。
窓から屋上を覗くと彼女がいて、何の躊躇いもなく僕は扉を開いた。
季節外れにカラっとした晴天なのに少し肌寒くて冬のような日だった。
「今日は空が高いですね。………先輩?」
いつも僕が何も聞かなくても話し出したら止まらないような彼女の返事がなく、彼女に目を向ける。
初めて会った時のようにフェンス越しに世界を見ている彼女。でもあの時とは違う違和感があった。
「空ってどこまでが空だか知ってる?」
「…」
「今って調べたらだいたいの答えはすぐわかるんだね。便利だよね!あ、でも中には間違った情報もあるから全部鵜呑みにしちゃ駄目なんだよ。それに答えがひとつとはかぎ―」
彼女の声が遠のいていく。
彼女は空に限りがあることを知ってしまったのだ。きっとそれだけじゃない。一体いくつの答えを見つけてしまったのだろう。彼女は僕を置いていったのか。何も知らない彼女はもうどこにもいない。失われてしまったのだ。いや、これから失われる。答えを見つけたら失われてしまうのだから。
僕は彼女の話を初めて最後まで聞かなかった。彼女は僕の世界から失われた。
あとのことは覚えていない。
あれから時が経って思うことは彼女の見つけた答えはなんだったのかということだ。彼女が見つけた答えは、初めて会った日に僕が手放した答えと同じなのか。僕の手放した答えを彼女は見つけただろう。でも、もしかしたらそのうえで、彼女は彼女だけの答えを見つけたのかもしれない。その答えを僕は知ることが出来ない。僕はあの日彼女を世界から消してしまったから。