ワシの死生観
「願わくは花の下にて春死なむそのきさらぎのもち月のころ」
恐らく西行法師のもっとも知られた歌だろう。では西行さんはどんな死に方をしたのか?色々な方の資料を読むと、まさにその通り桜の盛りに亡くなられたようだ。
自分の理想を想いを歌や言葉にし伝え、その通りに死を迎えられたらどんなに幸せなことだろう。人間はいつか必ず死を迎える。「死ぬのが怖い」「死ぬのは嫌だ」そんなことを言う方もいるけれど、人間の死亡率は100%なのだから。
だったら怯えるよりも自分の死に様を死に時を思い描き、その様に迎えられたり決めたりできればどれだけ幸せなのだろうといつも思う。
随分と前になるが、丁度桜の盛りに吉野を訪ね西行庵にたどり着いた時に先の歌を思い出し、死に対する気持ちがクリアになったと自覚したことがあった。
もともと母が若くして急逝したので、自分自身死に対する意識と覚悟は早くから持っている。母はそんな自分の事を予見する訳もなく常々「私が死んだら〇〇の海に散骨して」と私たち家族、とくに我々子どもたちに言っていた。そして母の没後時間を置いて私が家族の代表としてその通りに遺骨の一部をその海に散骨した。当時はまだそんなことを言える様な社会ではなかったのでひっそりと、もちろん人様に迷惑のかかるようなところではない。
自分もそうでありたい、母から聞かされる度にそう思っていた。そして時が過ぎ伴侶を迎え共に過ごすうち、夫婦共にそんな死生観を持つ様になった。自分が植え付けてしまったのではとも思うが、価値観や感性を共有できるからこそパートナーになれるのだから自然なことである。
しかし想像以上に早くその事に向かい合わなくてはならない状況になってしまった。妻が大病を患い闘病の甲斐なく余命一月と宣告された時、そう告げられれば必ず伝えて欲しいと言われていたので伝えた。今こうして文字にするよりも口にすることの方が1000倍も、いやもっと重く苦しいのだが。
それを聞いた妻は背筋を伸ばししっかりと口にした「最終確認、これまでに話してきた通り葬式もしない読経も不要、戒名もお墓もいらない。誰に伝える事もいらない。場所は任せるので散骨をよろしくお願いします。」と、その日から2週間で妻は逝ってしまった。
母と過ごしたのは18年10ヶ月と18日、妻と過ごした日々は31年7ヶ月と3日、今後これほどに時間を共にする者も現れるはずもない。
あれから4年掛かり、一緒に歩いた場所や思い出の場所、初めてひとりで訪ねる場所。「こんな所に撒いてもらえて良いねえ」と呟きながら方々に撒いてきた。そして今はひと握りの灰だけをを残して、最後に撒いてやりたいと考えている場所に行くタイミングを待っている。
突然死の家系でもあるし自分自身の死は自然に受け入れられると考えている。恐れも不安もない。明日の朝目覚めないかもと生きているが、願わくば出来るだけ人様の迷惑にならない突然死をしたい。できるだけ何も残さずに、それが幸せだと思っている。生まれ変わりたいとも思わない。焼かれて煙になって消えてしまえれば最高だ。がしかし、自分の考える通りに誰が散骨してくれるのだろうか?子どももいない自分には今のところそれだけが心配だ。
桜の季節になると西行さんの歌がリフレインし花を見ながらこんなことを思い出しているのだが、還暦を迎えたのを期に記しておく。