弥生時代の年代観 【追記】
「弥生時代中期」などの年代の区分は、科学的な年代測定技術の進展で揺れ動いており、また、学者によっても 呼び方が変わります。
ここでは、野洲川デルタの弥生遺跡の説明のために、私たちが使う時代区分を説明しておきます。
さらに、野洲川デルタに存在した拠点集落と年代の関係を述べておきます。
野洲川デルタの拠点集落と時代区分
このシリーズで、弥生時代前期、中期、後期という時代呼称を使っています。
また、時代呼称と暦年代の対応や呼び方を決めておく必要があります。
私たちは、考古学の専門家に指導を仰ぎ、自分たちの年代観で遺跡の関係を見ていきます。
時代の呼称も考古学者によって微妙に違っています。
これも私たちなりに時代の呼称を定めて用いています。
弥生時代の始まりは、水田稲作の開始を持って定義されてます。
水田稲作は中國大陸から朝鮮経由あるいは直接海を渡って日本にもたらされたと言われています。
九州に伝わった稲作は東側に広がっていきます。
すなわち、地方によって、弥生の始まりが違っています。
ここでは、近畿地方の時代区分と暦年対応を使っています。
疑問に感じられた方へ
この図をご覧になって、おかしいぞ?
と感じた方がいらっしゃると思います。
①弥生時代の始まりはもっと早い
②古墳早期 ってどんな時代?
③歴史に詳しい方は、 弥生後期の始まりはもう少し遅いのでは?
とか、ご意見がありそうです。
科学的年代測定による弥生時代
新しい科学的年代測定法が導入され、時代区分と実年代の関係が前倒しに
なってきています。
炭素14年代法が実用化され、国立歴史民俗博物館が新しい時代区分と暦年の対応を発表し、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだとする説を提示しました。
従来の年代観より5~6百年前倒しとなり、考古学者が築き上げてきた、
土器編年と中國・朝鮮の歴史対応や遺物対応などの歴史観の全体構造との
整合性などの問題があり考古学者のなかで必ずしも賛同を得られていない
側面があります。
また、新しい測定技術に対しても、「揺れ動いている」不確定要素がある
ことを否定できないこともあります。
弥生時代の始まりとは
上の図は、歴博のデータを基にウキペディアに書かれたもので、北九州で発見された弥生時代早期の土器の炭素14年代を示しています。
「北九州での弥生時代の始まりは・・」と言われれば、「そうか!」と思えるのですが、「日本の弥生時代の始まり・・」と言われると、「う~~ん」と感じてしまいます。
地域による水田稲作の伝搬時期の年代差も大きく、「日本の弥生時代の始まり」の定義も難しいですね。(文末の付録に稲作の伝搬に関するデータを入れておきました)
弥生時代の始まりを「水田稲作の始まり」に加え、「稲作の安定な社会システムとなった時」と言う方もいます。
国立歴史民俗博物館による炭素14年代法で、近畿地方の年代も少し動いていますが、私たちは野洲川デルタの弥生遺跡を調べているので、従来の年代観に自分たちの考え方を盛り込んで、冒頭のような暦年対応を行っています。
ちなみに、NHKの歴史番組では弥生時代の暦年をどう扱っているか。
次の図をご覧ください。 2024.10放送の「歴史探偵」で使っていました。
紀元前は暦年を書いていません。書き入れると、何かと批判されるのでしょうかね?
弥生後期の始まり(弥生中期の終わり)
弥生中期に栄えた近畿地方を中心とする大規模環濠集落は、弥生後期になると衰退し小さな集落になっていきます。
このような社会構造の大きな変化をもって「中期の終わり⇒後期の始まり」としており、考古学者は社会構造変化の捉え方によって、画期を西暦25年とか50年あるいは80年と主張しています。
近年、高知大学によって2000年まえの巨大南海地震の存在が見つけられて
おり、その規模は2011年の東北地方太平洋沖地震よりも大きかったと推定されています。
この南海大地震の大津波が四国・近畿・中部地方を襲い、内陸部でも大きな震度で揺らしたに違いなく、集落・港湾施設・交通網を壊滅させたこと
でしょう。
これが社会の構造変化を引き起こしたとして、紀元1年頃を後期の始まり としました。
2000年前という数値に、数10年の誤差はあるそうですが、発表された中央値を採用したということです。
中期末から後期初め、中国地方~四国地方~近畿地方にかけて、高地性集落が「一斉に、爆発的に」出現(寺沢薫「王権誕生」)し、また少し遅れて東海・中部地方にも高地性集落が現れます。
これは地震と大津波のもたらした社会現象でしょう。
九州は地震の影響が少なかったでしょうが、当時の倭国の広い範囲で、地震・津波の影響を受けました。
これが大きな画期の要因なので、紀元1年を中期の終わり=後期の始まりと
考えました。
この件については、別途ご紹介したいと考えています。
古墳早期とは
卑弥呼共立により「卑弥呼政権」が誕生するわけですが、この時期を弥生時代に入れるか古墳時代に入れるか?
学者の間でも見解が分かれています。
次のような時代の画期が考えられます。
・銅鐸祭祀から銅鏡祭祀への転換期 (卑弥呼が実施)
・大型の前方後円墳の築造期 (卑弥呼の死後)
古墳時代の定義の仕方にもよるのですが、私たちは「銅鐸祭祀⇒銅鏡祭祀」を持って弥生後期の終わりと考えており、卑弥呼の時代は古墳早期としま
した。
30のクニグニが合議の下卑弥呼を共立したわけで、紀元180年前後が
大きな画期となります。(学者によりズレがあります)
改定年表
弥生時代の始まりから、弥生時代の終わりの暦年を見てきました。
近畿地方の年表は冒頭に記載した通りですが、その考え方をこれまで
述べてきました。
では、日本の年表はどうすればいいのでしょうか?
そこで文の最後(付録)に入れた各地の弥生時代の始まりを付加して、
次のような年表にしてはいかがでしょうか?
(付録)各地の弥生時代の始まり
従来の年代観に、炭素14年代法を適用した(部分的に)、各地の弥生時代の始まりを示します
ハッチングしてあるところが弥生時代です。
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