言葉は人を救うのか?人を殺すのか?
行き過ぎたアドバイスは、時に人を傷つける刃となる—
そう気づかされる出来事が先日知人との食事の際に起こった。帰り際の会話から急遽、彼は私に対してあるアドバイスをし始めた。正直その中には、自分自身としても自覚している、まさに「耳が痛い」有難い忠告もあり、しばらく聞き入っていた。改めて、自分自身の言動を振り返る機会になり、改善できるところはしようと思っていた。
ところが、話の方向性が徐々に私のあらゆる言動にまで及んでくる。自分の活動、所属しているコミュニティ、そして私の在り方にまで。しかもそれらはすべて、否定の色合いが強いことが嫌でも伝わってくるのである。コーチ・カウンセラーとして、ステートと言われるもの、つまり心の在り様・状態については、比較的ポジティブに維持・向上できる自負を持っていた私も、さすがに怒りの感情が生じてくる。かの孔子が論語で述べた、『六十にして耳順(したが)ふ』には、年齢的にもそうだが、あり方の上でも達成できていなかったらしい。
だが一方でまた、この「怒り」という感情をしっかりと感じ、そしてそれを時には人にそれを適切な形で表現することも必要だろう。実際この時の私も、はっきりとそのことを彼に伝えたし、そうしなければずっと私の怒りの矛先は吐き出し先を求めて、ずっと自分の心身を蝕んでいたかもしれない。もちろん、表現の仕方に配慮は求めれるものの、やはりどのような関係性にあろうと、自分の尊厳などここは譲れないという場面では、相手に自分の思い・考えを伝えるべきことを恐れてはいけないのである。このことは、怒りの感情に限らない。悲しさ、寂しさ、、、あらゆる負の感情に当てはまる。コーチ・カウンセラーとしてクライアントに接することがある身としては、そのことを強く実感する。そもそも、クライアントの抱える苦しみの多くはそうである。ずっと吐き出さずに自分の中で溜め続けた感情が、長い間自分を苦しめながら、心身を蝕んでいくのである。自分の感情に蓋をして見ないふりをしてきたことが、どうにもならなくなった段階で救いを求めにくることが多いのである。
もちろんこれは、クライアントに限らない。自分の感情・意思をしっかりと伝えるべき時に伝えること。はっきりと「No」と言うべき時には「No」というべきなのである。その「No」すら受け入れない相手であれば、そっと距離をおいていけばいい。自分の人格否定をしてくる相手には、全力で抵抗するか、距離を取るべきである。自分という存在を否定する相手といることで、人は幸せになれるだろうか。もちろん、相手がそうした非を認め、心底謝罪するのであれば、それを受け入れるかどうかは自由である。ただ、それでもまた同じような過ちを繰り返しがちなのも人間の性質なのだろうか。「仏の顔も三度まで」とはよく言ったものだが、そのラインを自分なりで決めてもおくのもいいかもしれない。
そしてこのことはもちろん、逆の立場になった時のことを考える上でも大いに役立つ。果たして自分は、相手によかれと思って余計なアドバイスをしていないか?相手が求めてもいないのに、必要以上のアドバイスをしていないか?コーチ・カウンセラーとしては、このようなことは当然の前提ではあるが、これはそうでない立場の人にとっても、大いに当てはまる。特に、冒頭でお話しした、
行き過ぎたアドバイスは、時に人を傷つける刃となる
このことは、コーチ・カウンセラーに限らず、あらゆる人が心しておくべきことのように思う。良かれと思ってしたアドバイスで、逆に相手のやる気をそぐことになったり、傷つけたりすることになってしまっては、本末転倒であろう。このことは、子どもを育てた経験、あるいは仕事で人にものを教える立場にある人であれば、おそらく何度か経験済みのことかもしれない。本来アドバイスというのは、本人が気づかない視点を提供することであり、それを採用するかどうかは本人次第である。だからもし、人を育てたり人にものを教えたり、アドバイスする際には、次のようなことを忘れないようにしたい。
相手を変えようとして、自分の見方・価値観を押し付けていないだろうか
あくまで、自分と他人は別の人格をもった人間だというのに、ついつい分かったつもりになって、自分の見方・価値観だけで判断していないか
相手の人生を生きていない自分ができるアドバイスなんて、ほんのわずかなものでしかないということ
相手のためを思っていたつもりが、逆に相手の尊厳を傷つけてはいないかどうか
子育て、教育、伝達、あらゆる場面において、こうした相手に対する尊重や自分に対する謙虚さを忘れないようにしたいものである。「安易なアドバイスは現に慎むべし」といったこともよく言われるが、これもやはりこうしたことへの配慮が欠けたことによる悲劇から得られた教訓なのかもしれない。とりわけ先述したように、自分と相手とは別の人格をもった人間である。もしアドバイスをする必要性がある場面であっても、相手に応じてその表現の仕方は変えなければいけないし、またアドバイスの内容自体ももちろん変わってくる。まさに「人を見て法を説け」とは良く言ったものである。このことは、人を育てたり教える立場の人に限らず、あらゆる人に必要な姿勢と言えるだろう。また、「行き過ぎたアドバイスは時に人を傷つける刃いなる」ということも忘れずにいたいものである。これには、相手の反応に対する感受性とともに、言葉に対する敏感な感性も求められるだろう。そう、
言葉は、人を救うこともできれば、人を殺すことにもなるということ
このことは、文章をしたためる立場として、常に忘れない姿勢でいたいと思う。また、コーチ・カウンセラーとしても、クライアントの言葉に込められたものの中にある救いを求める声、そしてこれに応える声、言葉を大事に扱っていくという姿勢。こうしたことを、今回改めて学ばさせて頂いたことに感謝したい。