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「共同体」をめぐる断章(3)
共同体とは目標ではなく賜物である、しかし賜物だからといって誰もが自然に受け取れるわけではない、というのが前回までのお話です。では、共同体という賜物を受け取ることができるには、何が必要なのか。それは「人とつながる余裕」だとパーマーは言います。余裕とはキャパシティのこと。両手がふさがっていては、キャッチボールはできないよ、というわけです。
(3)「人とつながる余裕」を育む方法が、観想(contemplation)です。別に座禅を組んでマントラを唱和する、という話ではありませんよ(まあ、それでうまくいく人もいるでしょうけど)。私の言う観想とは、どんな方法でもいいから、自分は分断されているという幻想に入っていって、私たちは相互につながっているという現実にふれることです。私の場合、人生でもっとも深い観想を経験したのは、失敗したり、苦しんだり、大切なものを失ったりしたことを通してでした。うまくいっているとき、分断の幻想にふけるのは簡単です。これは私の成果だ、私のおかげだ、この幸せは私が独りで成した手柄だ、という具合に。けれども、うまくいかなくなったとたん、自分ではない誰かを必要としていることに気づくのです。誰かに慰めてほしい、勇気づけてほしい、支え助けてほしい、というふうに。あるいは、どこで間違えたか指摘してほしい、叱咤してほしい、一緒にやり直してほしい、というふうに。成功のもたらす自己充足感など、ただの見せかけにすぎません。必要なのは共同体であり、それは心を開きさえすれば手に入れられるのです。
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