原存在と認識主体の関係性
もしいまこの瞬間に「私」という意識主体が消滅したならば、いままでこの「私」に見えていたこの世界はどうなるであろうか。一人の人間が死んだところでこの世界が変わるわけがないと考える人が多いのではないだろうか。「外界はそれを認識する意識主体(認識主体)の存在とは関係なく、外界それ自体が客観的かつ物理的に存在している」と捉えるのが実在論の考え方だ。かのアインシュタインでさえもそう考えた。
なぜこのような考えに囚われるのかといえば、多くの人は「私」という意識主体が存在しない世界を考えようとしても、どうしても現に存在している認識主体の視点で「この世界」を考察してしまうからだ。しかしながら、それは人間的視点に囚われた迷妄に過ぎない。なぜなら「この世界」は私たちの脳という認識メカニズムを介して組み立てられ投影されている世界だからだ。
かくの如く、私たちを取り巻く外界を「この世界」として認識する意識主体が存在しなければ当然ながら「この世界」は存在できないが、この世界を存在たらしめる「原存在(ここでは「存在の原因」という意味で使っている。ハイデガーのいう「現存在」ではない)」なるものが存在するであろうことは確かなように思われる。
仮に私たちとは異なる認識体系を有する知的生命体が存在すれば、彼らの現前には「原存在」が私たちが認識している世界とは全く異なる様相の世界として現出するだろう。すなわち世界(外界)は私たちに見えているように実在しているわけではなく、原存在と認識主体との関係性によって組み立てられている「現象世界」なのだ。