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ハイデガーの「投企」再考

人間はこの世界に自分の意志で生まれてきたわけではなく、自分の意志とは無関係にこの世界に投げ込まれた存在である。このような自分の意志ではどうにもならない状態をハイデガーは「被投性」と表現した。確かに私たちは自分が希望したわけでもないのにこの世に生まれてきて、そしてこの世から去っていかなければならない。

嗚呼、人生とはなんと無常なのであろう。世の中の大部分の人間(=世人)はこの冷厳なる事実を受け入れ難く、死への不安や恐怖からできるだけ目を逸らそうとする。自分もやがて確実に死すべき存在であることを少しでも忘れようとする。なぜならば自分の存在が無化されることが不安だからだ。その漠然とした死への不安から逃れるために人々は日常性の中に埋没して気を紛らそうとする。

しかしながらいつまでも日常性の中に埋没してしまっているとやがて自分自身を見失ってしまう。これをハイデガーは「頽落(たいらく)」と表現した。だから人間は死を直視し(=死への先駆的覚悟)、本来あるべき自己(=本来的自己)を取り戻さなければならない。死を直視することで日常性に中に埋没していた自分を見つめ直し、本当の自分を取り戻そうとする試みこそハイデガーのいう「投企(=企投)」だ。この投企によって人間は自らの意志で自分自身の存在に意味を与えることができるようになる。

ちなみにハイデガーは実存主義の哲学者に分類されているが本人はこれを強く否定していた。ハイデガーは主著「存在と時間」で実はすべての存在者(森羅万象)を存在者たらしめている存在の意味を明らかにしようとして「存在と時間」の上巻で先ず現存在(人間)を実存論的に分析して下巻でいよいよ存在者の存在の一般的意味を問おうとしたが結局下巻は未完のままハイデガーは86年の人生に幕を閉じた。

これでハイデガーの言う「投企」の意味は分かったが、私たちにとって「本来的自己」とはいったい何なのだろう。死を直視することによって私たちは日常性の中に埋没してしまっている自分自身の生き方を問い直すことができる。だからといってそれを「本来的自己」と呼ぶのはあまりにも仰々しいと言わざるを得ない。人間は日常生活においていくつものペルソナ(仮面)を被っているような存在だが、逆にこれらのペルソナの絶妙な組み合わせが個々の人間性や個性(パーソナリティ)を形作っていると言える。

それ故、私たち人間からペルソナを剥ぎ取れば「本来的自己」が現れるどころか逆に単なる没個性的な人間が現出するだけだ。たとえどんな生き方をしていようが自分は常に自分であり、その自分に「本来的自己」も「非本来的自己」もないのである。むしろ人間は死と向き合うことによって人生のはかなさや無常さを改めて認識し、今までの自分の生き方を問い直し、残りの人生を少しでも意味のあるものにしたいと考えるようになるのだ。これこそが本当の意味の「投企」であると言えよう。

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