儲かる農業を実証しようと56歳でブドウ農家となり、多数の品種を開発
私が育種家の体験記の聞き書きを始めた理由
今回は7作目となる花澤茂さんの育種体験記を紹介させていただきます。
6年前に農林水産省を退職した私は、退職の数年前からやめた後に何をしようかと考えめぐらしていました。体を動かす運動が苦手で、不器用で特技もなく、これをやりたいと思うものがなかったからです。釣り、ゴルフ、カラオケ、旅行etc、多くの男性が取り組むことにも興味はありませんでした。
そんなとき、ある新聞に載った聞き書きボランティアの記事を目にしたのです。他人の人生の歩みを書くのは大変だけれど、自分がするのでなく、他人の頑張ってきたことを書き残してあげて喜ばれることへの魅力を感じたのです。
実際に聞き書きをしている人に聞いてみようと、東京都庁に電話し、熱心に取り組んでいるボランティアのグループを紹介してもらい、そこで行っていた聞き書きボランティアの養成研修を受けたのです。三木のり平や淡路恵子の聞き書きも行っていた講師の小田豊二先生から教えてもらえたことは大変に良かったと思っています。
聞き書きボランティアとなり、これまでそば教室も開いてミシュランの星を取った店など多くの手打ちそばやを誕生させた蕎麦屋の社長さん、シベリヤ抑留から解放されて東京トップの販売をした牛乳販売店の店長さん等の聞き書き行いました。でも、2年半前に個人育種家を会員とする全国新品種育成者の会から頼まれ、会の事務局をすることになり、聞き書きをする時間が取れなくなりました。
事務局を頼まれた会の約60人の会員は、ほとんどが草や果樹などの農家で、通常の作物生産をしながら、長期間にわたる育種作業を行っています。試験場や種苗会社の職員の育種家と違い、経費も労力も自前でしていて、その回収は作った新品種が売れない限りできない中で、努力されています。
農林水産省勤務時代に、新品種の調査で現地に伺ってみてきた自分に、その人たちの力になれるか不安は持ちながらも、引き受けさせてもらうことにしました。会員が全国に散在していて顔を合わす機会がほとんどない状態でしたので、私は会長と話し、会の機関紙を作ることにしました。
種苗法の改正が国会で審議されている時で、生産者や消費者からも反対の声が上がっているときでした。それを見て、品種の重要性、育種家の実態が理解されていないことを痛感したこともあり、会の機関紙、かわら版「育種の波動」に会員の育種の取組みを載せることにしました。
その育種体験記の掲載は、一人で黙々と育種に励んできた本人に励ましとなり、読んだ他の会員には自分も頑張ろうとの刺激になると思ったからです。記事の掲載を始めると、取り上げた会員から「ありがとう」との感謝が、ベテランの育種家である会の顧問の方たちからも、「育種家の体験を書いたものはこれまでに見たことがない」との声をもらい、うれしく思いました。
そんな中、広く一般の人たちにも読んでもらうべきとの意見があったので、この3月からのノートに投稿を始めたのです。
聞き書きは、話し手が経験された様々な課題や障害をどう対処されてきたかの話を聞いて書き留める作業です。その作業は、その人の記録を残すだけでなく、その人のこれまでの人生に対して、素晴らしいと最大の賛辞を贈る作業だと思っています。
かっては稲作は不可能と言われていた北海道で稲作が可能となり、今では「ななつぼし」や「ゆめぴりか」等の良食味品種が作られるようになったことなどは、育種に携わった育種家の力であり、一人の育種家の取組みは、地域農業や社会に大きな変化を与えてきました。その意味で、育種家の育種体験記を書くことは、聞き書きをするにふさわしいテーマだと思っています。
うまくいかなくとも、モチベーションを保ち続けて夢を実現しようと涙ぐましい努力をされている育種家の姿を多くの方に知っていただきたい、そして結果として、育種家に対する理解が進み、光が当たるようになってほしい、それが私の願いです。
今回取り上げる花澤茂さんは、作年亡くなられましたが、戦中・戦後の厳しい食糧難を経験され、高校教師として農業後継者の育成に携わったものの、農業希望者が減少する中にあって、自らが夢を持てる農業をしようとブドウ農家となって育種にも取り組み、皮ごと食べれる瀬戸ジャイアンツ等の品種を多数育種され、その素晴らしい話に襟を正して取り組もうと真剣に書かせていただきました。
前置きが長くなってしまいました。ぜひ、花澤さんの育種体験記をお読みください。
《この体験記は、話し手本人の話し言葉で書いています。》
❖戦後の窮乏生活の経験が、農業一辺倒の人生に
岡山市にある花澤ぶどう研究所の花澤茂です。岡山県東部の和気町の農家に生まれた私は、7歳で父を失い、遊びより農業を手伝う日々を過ごしました。終戦後には、家族3人だった生活が、兄と姉の帰郷、叔父2家族の外地からの引き上げで17人家族となり、食べ盛りの中厳しい窮乏生活を経験しました。その体験が、私の農業一辺倒の人生観を培ったのだと思っています。
❖農業後継者を育成しようと農業高校教師、農業改良普及員などで働く
昭和30年、岡山大学農学部を卒業した私は、翌日から県の農業試験場果樹分場に勤務、昭和31年からは県立精研高校(現井原高校)、昭和44年からは瀬戸農業高校(現瀬戸南高校)の教員となり、果樹園芸を主体として営農指導、農業後継者の育成に努めました。
昭和56、57年には県の初めての交換人事で、農業改良普及員▾としても勤務しました。
❖夢を持てる農業を実証しようと、56歳で花澤ぶどう研究所を設立
この頃、我が国は高度成長期を迎えたものの、農業はそれと引き換えに衰退しはじめ、農業を志す若者が減少し、農業高校での後継者育成が困難となりました。
それならば、自分が長年関心を持ってきたブドウで若者に夢を持たせる儲かる農業経営を行って実証しようと、33年余り務めた教員を辞し、平成元年56歳で花澤ぶどう研究所を設立したのです。
私は、昭和43年に現在の宅地周辺の農地を取得し、試作農場としました。
❖主要品種価格が低迷し、代替品種を探すが見つからず
昭和30年代後半、岡山県のブドウの代表的な品種である「キャンベル・アーリー」▾が他県産の「巨峰」や「種無しデラウエア」の進出で価格が低迷し始めました。私は、各方面の研究機関や篤農家▾を訪ねて「キャンベル・アーリー」に代わる品種を探しましたが見つかりませんでした。
そこで、自分で品種を収集して試作研究しようと考えたのです。最高時には270もの品種を調べた結果、「キャンベル・アーリー」より優れた品種はありましたが、思うような品種を見つけることはできませんでした。
❖売れる品種を作ろうと、自ら育種を開始
それならば自分で品種を作り出そうと、私は育種を始めることにしました。今の人気品種がいつまでも売れ続けるとは限らないので、「従来品種を売る努力」より「売れる品種を作る努力」が重要だというのが私の信念でした。
❖収集したブドウ品種を500組を交配し、誕生した優良個体を選抜
その後は、収集した欧州ぶどう約300品種を試作しながら、毎年約30組ずつ、全体で約500組を交配し、実生▾を育てて優良な個体の選抜を行ってきました。数千株の実生個体の中から、0.1%にも満たない確率にかけての地道な作業です。
❖瀬戸ジャイアンツ、ハイベリーなど登録品種8品種を育成
育種開始から登録申請して国から内定公表を受ける(現在の公表は出願公表のみ)までには、順に親品種の保存、交配採種、実生の育成、個体調査と淘汰選抜▾、2世代の試作調査、品種登録申請、現地調査▾確認等を要し、十有余年の歳月がかかります。
綿密な管理と莫大な労力がかかる育種作業を繰り返し、1989年に「瀬戸ジャイアンツ」、「ハイベリー」、「涼玉」、「ブラック三尺」の登録を得たのを皮切りに、現在まで8品種の登録品種▾を誕生させることができました。
❖種なしで皮ごと食べられる大粒ブドウ、瀬戸ジャイアンツ
なかでも、当研究所の代表品種となったのが「瀬戸ジャイアンツ」です。1979年に「グザルカラ」と「ネオマスカット」を交配した実生から選抜しました。
ももに似たグラマーな形、作り方によってゴルフボール大になる大粒のブドウで、露地栽培でも裂果▾しない画期的な品種です。味はシャキッとした食感、あっさりした甘さが特徴で、何よりも種なしで皮ごと食べられることから、種なしマスカット系品種▾として注目されるようになりました。
栽培仲間からアドバイスを受けて、我が国の気象風土に合いそうな品種のみに絞って交配を行った結果であり、「神様からの贈り物」であると感謝しています。
❖桃太郎ぶどうの名で、おいしいブドウとの評価をもらう
でも、当初は、粒の形が独特なこともあって、市場の関係者には相手にされなかったんです。
「瀬戸ジャイアンツ」は、桃太郎ぶどうの名で岡山県の特産品種とすべく、生産組合を設立、栽培技術の指導や普及活動などを行ってきました。おかげさまで、今ではおいしいユニークなブドウとしての地位を確立することができました。
❖農林水産技術会議会長賞、園芸功労賞を受賞
平成19年には、長くブドウ栽培を行った経験と新品種を作ったことが認められ、妻とともに上京し、農林水産技術会議会長賞と園芸功労賞をいただくことができました。
次の課題は、品種の特性を最高に発揮させ、一層おいしいブドウを作る栽培技術を確立することです。その基本は、これまでに解明された生物科学情報を基礎として、自然の法則に沿った栽培体系の再構築が必要だと思います。
❖消費者への直接販売を実施
当所では、パソコンやネット環境もなかった設立当初から、Faxや郵便などを利用して消費者への直接販売を行ってきました。特に、新しい栽培法で育てた3~4品種の完熟ブドウを詰め合わせ、品種特性と栽培法の解説書を添えた「世界のぶどう詰め合わせ」が好評を得ました。
❖息子に経営を譲り、農家の栽培指導や後継者育成に取り組む
花澤ぶどう研究所は、平成25年に息子の伸司に代表を譲り、私は育種とともに農家の方への栽培指導や後継者育成に力を入れてきました。特に育種については、個人的な権利や利益の追求の為ではなく、農業者地位の向上と若い世代が農業を選択し経営できるようにするための方法論だと考えて取り組んできました。
私と考えを同じくする人たちが集い結成した花澤会も栽培技術の向上、新品種の育成・普及、内外の研修生の受け入れ、後継者の育成などを行い、岡山南ロータリークラブからは職業奉仕賞の授与されました。
また、開発品種の見学に、イラン、イラク、中国、韓国、チリ、ブラジル、アルゼンチン、ドバイ、インドネシア、エジプトなどからも、生産者や研究者が来所されたこともありました。
❖消費者に喜ばれる商品を提供する農業者の地位向上を願う
農は国の基です。農業者は、生きるために欠かせない農作物を生産し販売する職業だということを忘れず、時代の変化や消費者ニーズの変化に遅れることなく、そして消費者に信頼され、喜んでもらえる商品を提供しなければなりません。
既に私は老体となり、介護が必要な日々となりましたが、常に生産性を問い、より高収益を上げることによって、若い人と農の夢が語れる農業、農にかけた農民の自信回復、地位向上が実現することを願う毎日です。
#花澤ぶどう研究所 #瀬戸ジャイアンツ #ハイベリー
#涼玉 #ブラック3尺 #桃太郎ぶどう
#若者が夢を持てる農業
(全国新品種育成者の会の大先輩でもあった花澤茂さんは、2022年7月に亡くなられました。心よりお悔やみ申し上げます。)
用語(▾印)解説
▾農業改良普及員:直接農家に接して農業や生活の改善に関する技術や知識
の普及を行う都道府県の職員。都道府県の農業改良普及所に勤務。
▾キャンベルアーリー: アメリカのジョージ.W.キャンベルが育成した果皮
が黒紫の品種で、日本には1897年に導入された。北海道でも栽培が可
能で、各地で栽培された。
▾篤農家:熱心な栽培研究に裏付けられた実績を持つ、その地域や作物分野
を代表する農家
▾淘汰選抜 :新しい品種を育成するための育種操作の1つ。不適当な個体を排
除し、優良な個体を選抜すること。
▾実生: 種から芽を出して成長すること。その種から発芽した植物。
▾現地調査:登録申請された品種について、国が調査する方法の一つ。申請
品種を栽培している育成者の試験圃場に出向き、特性を調査する。他
に育成者から提出された種や苗などから栽培して特性を調査する栽培
試験等の調査がある。
▾登録品種:種苗法で定められた品種登録制度で、国の審査に合格し、植物
新品種として登録された品種。登録品種には育成者権が与えられる。
▾裂果:育つ途中や収穫中、運ぶ途中に果実が割れる現象。過湿や過密着な
どが原因とされている。
育成者の会からのお願い
全国新品種育成者の会は、民間育種の振興、育成者の権利の保護等を目的に、種苗や品種登録制度等に関する情報提供、講演会の開催、優育種機関等の視察研修、優秀な育種家の表彰等の活動を行っています。
農林水産省からも種苗管理制度などの説明をしていただいたり、育成者の要望を聞いてもらったりしています。
育種をされていない方であっても、準会員として同じ活動に参加することが可能です。
ぜひ、私達と一緒に活動したり、私達の活動に協力してもらえませんか。
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