【芸能・テレビ番組】1!2!3!チャッラーン!!こん平でーーーっす!!
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昨日の報道をご覧になった方も多いと思いますが、笑点(日本テレビ)のメンバー(休演中)である林家こん平さんがお亡くなりになりました。こん平さんが亡くなったことにより、笑点の放送開始時のメンバーは座布団運びの桂文字助さんだけになってしまい、回答者は全員亡くなってしまいました。
現在、こん平さんの着物を受け継いでいるのはお弟子さんの林家たい平さんです。たい平さんもこん平さんと同じく元気いっぱいのキャラクターが特徴ですよね。(あとはものまね)
そして、2016年の春風亭昇太さんの司会就任時に同じくお弟子さんでこん平さんのお師匠さんである初代林家三平さんの御子息である二代目林家三平さん(林家いっ平さん)もメンバーに入ったことにより、根岸の一門から2人入っていることになっています。
※本来なら二代目三平さんと行きたいところですが、ここではいっ平さんで統一します。六代目円楽さん、九代目正蔵さんも同様に楽太郎さん、こぶ平さんにしています。
1:こん平さんのキャラクター
こん平さんは先ほどもお話しした通り、1966年の放送開始時からのスターティングメンバーの一人です。初代司会者の七代目立川談志さんとのいざこざで五代目三遊亭圓楽さん、桂歌丸さん、四代目三遊亭小圓遊さんらと一時降板した以外はたい平さんが代役を務める2004年まで長きにわたり出演していました。
こん平さんのキャラクターは以下の通りです。
・チャーザー村(千谷沢村)の権助
・肥溜めに落ちる(わたしのトゥイッター上での呼称の元ネタ)
・山田隆夫さんクビネタ(現在もたい平さんがやっている)
・田中角栄さんのものまね
・声がでかい
・大飯喰らい(ごはん党党首)
・あたしのカバンの中には、まだ若干の余裕がございます!
・チャラーン!
など
今の若い世代はオレンジの着物と言えばたい平さんでしょうけど(たい平さんも登板してから16年がたちますからね)、わたしたちの世代(30代以上)はこん平さんでした。
歌丸さん、三遊亭楽太郎さん(現・六代目三遊亭円楽さん)、こん平さんのトリオで爆笑をかっさらうこともあり、特に楽太郎さんからの悪口は歌丸さん同様にイジられ、よく圓楽さんや歌丸さんの悪口等に対して「オイ!」と横から突っ込んでいました。
山田クビネタは現在もたい平さんがやっていますが、当時はこん平さん中心に楽太郎さん、歌丸さんもよくやっていて、山田さんから吹っ飛ばされていました。そして、20年以上前ですから、皆さんお若いためか、アクションも激しいです。
こん平さんが最初にやり、次に楽太郎さんがやり、そして歌丸さんに至っては「山田君、敵を取るから」と言って結局落として三人とも山田さんに突き飛ばされて3人とも仲良く座布団全部没収というパターンもありました。w
また、座布団も圓楽さんが司会のころは山田さんに一任していました(大体全部没収が多い)が、歌丸さんと昇太さんのころには同様に吹っ飛ばされ、座布団を取られますが、必ず取られた枚数+1枚もらえるようになってます。また、この頃にはたい平さんぐらいしかやらなくなっています。
こん平さんはらくご卓球クラブの監督であり、三遊亭小遊三さんや山田さんと共に「タマスのバタフライ卓球道場」(タマスはバタフライのブランドで知られる卓球用品のメーカー)で汗を流しているという自己紹介をよくやっていました。これは後述の病気になってからも行っています。
2:視聴者参加挨拶
そんなこん平さんですが、2002年ごろから、
1!2!3!チャッラーン!!こん平でーーーっす!!
という「視聴者参加挨拶」を行っています。
これに対して、楽太郎さんは「チャラン!はイヤなんです!みなさんやっちゃあダメなんです!楽太郎です!」と自己紹介時に文句、こん平さんも「楽ちゃんに捧げる挨拶」と返していつものアレをやったりと毎回毎回のお約束で爆笑していました。
ちなみに、視聴者参加挨拶をし始めたころに現在の高座にリニューアルしています。もう18年なんですね。
3:苦労人
肥溜めだの、チャラーンだの、山田クビネタだのと、元気いっぱいに笑点の高座で大暴れしているこん平さんですが、実際はかなりの苦労人。
初代三平さんの最初の弟子(統領弟子)として、師匠から手ほどきを受けたのですが、1980年に三平さんが亡くなります。その時に、分裂を防ぐために37歳にして根岸の林家の一門を引き継ぎます。
三平さんを失った穴は大きく、落語協会分裂騒動を知っているためか、後遺症も後を引いて、活動するにあたり苦労されたといいます。(それだけストレスも尋常じゃなかったためにお酒の量も増えたといいます)それでも、三平さんのお弟子さん(預かり弟子)を育て上げました。その中にはご子息である九代目林家正蔵さん(林家こぶ平さん)も入っています。その一方で直弟子としてたい平さんやいっ平さんを育て上げました。
そして、師匠方にも認められ、1995年には落語協会の理事に就任します。
4:闘病
そんな苦難を乗り越え、60代になり脂がのってきた矢先、2004年の夏に24時間テレビ(日本テレビ)の生放送のころから様子がおかしくなり、放送後に緊急入院。その後声帯を患ったとして休業を余儀なくされました。(圓楽さん曰く「声患い」と番組内で説明)
直近の放送でも視聴者参加挨拶をしたものの、「こん平でーっす!」が言えなかったこともあったから、兆候はあったと思います。
当初はすぐに戻るはずでしたが、回復に時間がかかるということで、2004年末に若手大喜利で勝利したたい平さんがこん平さんの席に座ることになります。たい平さんは当初「代役」扱いで、こん平さんが戻ってきたら退く予定でした。
しかし、こん平さんの復帰は声を患ったこともあり長期になることもあり、「休業扱い」として卒業、降板をせずに治療に専念します。そしてその穴を埋めるのはやはりたい平さんで、2006年に歌丸さんが司会に正式就任(圓楽さんが同様に脳梗塞でセーブ→卒業したため、当時はたい平さん同様代役扱い)と同時に昇太さんと一緒に正式メンバー入りして現在に至ります。
2016年のお弟子さんの林家ぼたんさんらの真打披露口上を笑点で行った際に登場しています。ぼたんさんと兄弟子であるたい平さんと一緒にこん平さんが来て三本締めを行っています。その時のEPGはゲスト扱いではなく、大喜利メンバー扱いとしてクレジットされています。
この放送以外では圓楽さん追悼放送、24時間テレビの笑点、同番組でのたい平さんのマラソンにも登板しています。
こん平さんは当初、声患いでしたが、その後多発性硬化症という難病であることが判明します。この病気が原因で声が出づらくなり、右手にマヒがのこってしまいます。
こん平さんは飲酒も多かったことから、多発性硬化症の原因ともいわれていますが、真相はわかりません。ただ、糖尿病も患っており、2013年に左足の指を切断しています。
その後は高座復帰を目指してリハビリに励みました。たい平さんがマラソンランナーになったときは、出たいということでより一層リハビリに熱が入り、スターターとしてたい平さんを見守りました。そしてゴールも出迎えました。
そして、先日17日に誤嚥性肺炎のために77歳の生涯を閉じました。
こん平さんが残したものは数多く、根岸の海老名家やお弟子さんはもちろん、多発性硬化症という病を知ること、そして、数多くの笑いをお茶の間に提供してきました。本当に長い戦いだったと思います。今はゆっくりお休みください。
林家こん平師匠のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
1!2!3!チャッラーン!!
参考文献