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[読書メモ] 植民地支配と開発: モザンビークと南アフリカ金鉱業

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1. はじめに

【ジャンル】近代ポルトガル植民地政策史(博士論文)
 高校の教科書や参考書で有名な山川出版ですが、今回は学術的に硬派なシリーズである「山川歴史モノグラフ」¹⁾から一冊拝読しました。それなりに話題になることもある中近世のゴアやマカオ、ブラジルなどではなく、1960年代の独立戦争まで全く話題に挙がることのない、近代のアフリカ植民地(モザンビーク)についてのポストコロニアル研究です。

 かくいう筆者も「領土的な存在感はあるよなあ」くらいの認識しか持っておらず、アフリカ植民地経営の実態についてはほとんど知らなかったので、記事にしてみました。今後も近世以降の海洋進出国(葡蘭英仏独日)の政治経済史などについて読んだ書籍・論文の簡単なメモを残していこうと思いますので、よろしくお願いします。


1) ホームページによると、コンセプトは「新進・若手研究者を対象に、歴史にかかわる先端的でオリジナルな研究成果」だそうです。なかなかマニアックなものが揃っているので、興味のある方は御覧下さい。

2. モザンビーク植民地の概括

 現存する世界最古の同盟である英葡永久同盟ですが、近代の英葡関係は従属的な同盟国(或いはイギリスの非公式帝国の一部)というものに近く、宗主国ポルトガルはイギリス政治の影響を大きく受けていました²⁾。そのイギリスで19世紀前半に奴隷廃止運動が始まると、ポルトガル植民地でもその余波を受けて奴隷制の廃止に向かいます。本書が研究対象とする同時代以降のモザンビーク経済の特徴としては南部アフリカへの人的資源の供給、つまり移民労働者の存在感が大きかったことが挙げられます。

 元々モザンビーク南部は近隣の植民地でのプランテーション農業などにおける奴隷の供給地として機能していましたが、賃金労働者になったとはいえ、その構造が変わることはなく、ラントやキンバリーの鉱山³⁾、ナタールやインド洋のフランス植民地であるマダガスカル、レユニオンなどでのプランテーション農業における労働市場の需要を満たしていました。

1898年まで首都が置かれたモザンビーク島、物流の中心地として奴隷取引所も設置されたイニャンバネとロレンソ・マルケス(1898年以降の首都マプト)
Map Data from: Google, Data SIO, NOAA, U.S. Navy, NGA, GEBCO, Landsat / Copernicus, and IBCAO

 奴隷制の廃止後もその構造が変わることはなく、実態としてそれが偽装奴隷的であったのか、自発的な移民による賃金労働であったのかには本書は深く触れていませんが、モザンビークは労働力供給地としての役割を続けます。もっとも、19世紀末の時点ではモザンビーク南部はポルトガル直轄地域というよりは現地勢力であるガザ王国の影響下にあり、版図拡大の途中で多くの戦争奴隷を獲得していたと考えられるガザ王国から近隣の労働力需要に答えて送り出された労働者と、奴隷制廃止のためにモザンビーク総督府が整備した条例の下自発的に移住した賃金労働者、これら2つの内訳は本書では明らかにされていません。

1824-1895年にかけて存在したガザ王国
By André Koehne - Own work, CC BY-SA 3.0

 しかし、1880年前後にガザ王国の侵攻の脅威が迫ったアフリカ人社会の首長らの間ではポルトガルに庇護を求める傾向が強くなり、著者はこれらのアフリカ人社会とポルトガルの庇護と納税による互恵関係がモザンビーク植民地の影響力の拡大(行政・課税地域の拡大)に繋がったとしています。

 また、著者は植民地行政としての課税に必要である貨幣経済の浸透過程の指標として、婚資の内容物に注目しています。元々、欧州市場への油糧種子(ラッカセイなど)の輸出の対価として、欧州で大量生産された鉄製の鍬がモザンビークでは流通しており、1870年代のイニャンバネ周辺では鍬が婚資として用いられていました。

 しかし、1880年代になると供給過剰により鍬は婚資としての価値を失い、90年代に牛疫によって主要な交換可能財産としての牛が失われたこと、小屋税の増額やガザ王国制圧により課税対象地域が拡大したことなどを受け、婚資の現金化には一層の拍車が掛かります。著者はどちらかと言うと租税貨幣論的な史観をしている様に感じましたが、兎も角もこの様な婚資の現金化を受け、婚姻前の青年男性の多くが移民労働へと向かいました。

 モザンビークからの移民労働者はインド洋の仏領領植民地にも向かっていましたが、その実態が偽装奴隷的であったためか、労働力を独占したかったためか、イニャンバネで労働力の調達を行っていたイギリス植民地の介入により、1890年以降は仏領への移民労働者は途絶えているとされています。

 これにより、モザンビーク経済は南アフリカを中心とした経済圏の周辺として従属的な位置が規定されていきますが、海外送金の手段も未熟な20~21世紀にどうやって海外への移民労働者がモザンビーク経済に貢献したのでしょうか。この点は次章でも触れますが、モザンビーク総督府は移民労働者の賃金が南アフリカ市場ではなくモザンビーク市場で消費されるよう、鉱山会社と「延払い」制度の協定を結びます。

 同協定により、移民労働者の賃金の一部はモザンビークへの帰還後に払われるようになり、また、契約の終了した移民労働者の還流も図られました。こうした南アフリカとの交流が盛んになるにつれ、ラントとロレンソ・マルケスを結ぶ鉄道(現プレトリア・マプト鉄道)から得られる収入(関税含む)がモザンビーク総督府の歳入内訳において大きな存在感を示していきます。


2) その特徴的な出来事としては、ナポレオン戦争時にフランスのポルトガル侵攻を受けてイギリスが援軍を派遣したり、イギリス海軍の護衛によってポルトガル王室がリスボンからリオ・デ・ジャネイロに避難したりしたことが挙げられるでしょう。英葡間の奴隷貿易禁止に関する条約はこうした情勢下で締結されました。
3) キンバリー、ラント、ナタールが英領となるのは、それぞれ1871年、1902、1843年ですが、後に全てイギリスのケープ植民地に組み込まれ、1910年には南アフリカ連邦(ドミニオン)を構成します。

3. ポルトガル植民地における位置付け

 ポルトガルの東方貿易における富の集積地であったゴア、中国や日本進出への足掛かりとなったマカオ、プランテーション栽培や金鉱山開発などで本国に大きく貢献したブラジル、同じくアフリカにあるもののダイヤモンド鉱山や油田などの天然資源が発見されたアンゴラなどに比べると、同時代には特段の天然資源もないモザンビークは本国にとって優先度の低い地域でした。

 イギリスの影響を受けて自由貿易主義に舵を切り、植民地も民間資本に開放してきたポルトガルですが、1873年恐慌などをきっかけにイギリスや他の欧州国同様、ポルトガルも植民地との間に保護関税を設けます。ポルトガル本国の産業はメシュエン条約によって大きく発展したワイン産業を除いて国際的な競争力は乏しく、それ故に植民地市場が輸出先として本国で重要視されますが、モザンビークへの輸出量は1901年の時点でアンゴラの半分にも満たなかったと言います。

 本書ではこの辺りに関して詳しい説明はしていませんが、(恐らく移民労働の賃金により)アンゴラよりも購買力が高いと見込まれたモザンビークでの市場の拡大が叶わなかった理由としては、隣接するイギリス領からの合法・非合法な物資の流入を総督府の税関が管理しきれなかったことが挙げられています。前述のロレンソ・マルケス鉄道の発展による人的・物的交流の拡大もこの一因であったのでしょう。

 資源も市場もない中でモザンビークが植民地として本国に経済的に貢献していた点として著者は「延払い」制度に大きく注目しています。この延払いの支払いの過程は、まず鉱山会社から金でポルトガル政府に支払われ、政府が金を国際市場で売却、延払い分は政府から総督府にポルトガル通貨で支払われ、総督府から帰国した移民労働者にポルトガル通貨で支払われる、という形式が取られていたため、仮に金の市場価格が延払い分より高ければ、その差額による売却益はポルトガル政府の歳入として計上されることになったと言います⁴⁾。

 特に、1961年にイギリス連邦から脱退した南アフリカとの1964年の政府間協定では、金による延払いについて1オンス35ドルという固定レートが設定され、その後の金価格の変遷を見ると非常に安価なレートであったことが分かります。南アフリカ側がこの安価なレートを設定・維持した理由としては、経済発展は進むもののアパルトヘイト政策により欧米や周辺のアフリカ社会からは孤立気味であった南アフリカが、同じく第二次世界大戦後にあっても独裁政権や海外植民地を保持し続け、イデオロギー的には同じく欧米社会から孤立していたポルトガルとの間で労働力の確保などの点においてモザンビーク植民地との繋がりを求めたから、などが考えられます。

 兎も角も、ブレトン・ウッズ体制などもあり、それ以降の金の市場価格は35ドルから大幅に上昇し、モザンビークが独立する1975年までには150ドルにも達しますので、ポルトガルの外貨獲得に多大な貢献をしてきたと言います。しかし、延払い制度自体はモザンビークの南アフリカへの経済的な従属を象徴するような制度ですので、モザンビーク解放戦線(FRELIMO)は同制度の廃止を公約として掲げていました。

 実際としては、確かにFRELIMO政権はモザンビーク内にあった南アフリカの鉱山会社の事務所の21箇所のうち17箇所を閉鎖し、独立時の1975年には約118,000人の移民労働者も翌年には44,100人に激減しました。また、1978年には金による延払いも停止しましたが、それでも移民労働者自体は絶えることがなく、南アフリカの鉱山で生まれる雇用機会やその移民労働者がモザンビークにもたらす外貨収入、移動に使用する鉄道からの収入など、FRELIMO政権にとっても南アフリカとの関係による利点を捨て切れなかったことが窺えます。


4) 著者はモザンビーク総督府に延払い分の歳入が計上されていないことから金がポルトガル政府に対して支払われていた可能性が高いとしており、検証のためにはポルトガル海外銀行(BNU)の資料を分析する必要があるとしています。また、実際にこれがポルトガルの利点となっていたかについても、当時の金の市場価格やキャッシュ・フローの動向なども合わせてよく検証する必要があるでしょう。

4. 帝国主義世界における位置付け

第一次世界大戦前(1913年)のアフリカ分割図
By Whiplashoo21 - Own work, CC BY-SA 4.0

列強によるアフリカの分割期において、モザンビーク植民地の行方に大きな影響を及ぼしていたのは、上図からも分かる通り、植民地同士で隣接するドイツとイギリスでした。因みに、本国ポルトガルでは1910年に共和革命が起こり、マヌエル二世が廃位されますが、その顛末についても触れておきましょう。

 詳述すると長くなりますので、簡単な記載に留めますが⁵⁾、未だ列強によるアフリカ中部の領有権が確定していない時期に、ポルトガルはアンゴラとモザンビークの間を結ぶことによってアフリカを横断する領有権を主張、これには多少の仏独との協調工作もあった⁶⁾様ですが、同地域の金鉱脈における利権獲得やアフリカ縦断政策の構想を持っていたイギリスはポルトガルの主張を認めず、砲艦外交などによる圧力もあり、1980年に同地域からの即時撤退を求めるイギリスの最後通牒をポルトガルは受諾します。

ポルトガルが領有権を主張した地域(通称バラ色地図)
By Lokal_Profil, CC BY-SA 2.5

 この事件により、本国では国王の権威の失墜や反英感情とナショナリズムの高まりなどが起こり、後の共和革命に繋がるのですが、元々モザンビークの実効支配も曖昧な状況であったため、国民の間に「ポルトガルの植民地の維持は絶対」という様な世論が形成される一方で、政府の中では財政力を鑑み、植民地の売却などが論じられる様になりました。

 実際にはこれ以降、英独間でポルトガルの植民地開発のための借款計画と債務不履行時におけるアフリカ植民地の再分割案などが何度も提示されたりしますが、それを脅威と感じたポルトガルが仏政府からの借款を取り付けたりと、アフリカ植民地は売却・併合されるのではなく、逆説的に言えば列強の政治力学の中で緩衝地帯としての役割を果たすことにより、その存続の可能性を見出していきます。

 もちろん、イギリスの中にもポルトガルの反英感情を逆撫でしすぎると親独に傾く危険性があるとして、英葡同盟を重要視する勢力がいたことも確かですが、自国と同じ立憲君主制を廃して共和制に移行したこともあってか、この時期のイギリスには英葡同盟の戦略的重要性を疑問視する声も大きくなっています。

 しかし、著者は、結果的に領土自体は存続したものの、上記の様にモザンビークが常に英独の利害調整による再分割の検討対象となっていたことは、同地域における外国資本の専らの企業活動が長期に渡る投資回収ではなく、短期的な資源収奪であったことの原因になったとしています。再分割によって企業活動が停止され、投下資本が回収不能となる可能性が常にある以上、換金性の高い作物栽培や労働力の収奪が同地域で促進されたことは、企業活動としてはある意味当然でしょう。


5) イギリス外交史ではファショダ事件と比肩される重要な事件とされていますが、日本語だと情報が少ないので、英語で「Berlin Conference of 1884–1885」「Rose-Coloured Map」「1890 British Ultinum」などで検索すると、ポルトガルでの国王の権威の失墜、反英感情とナショナリズムの高まりのきっかけとなった経緯が掴めるかもしれません。ベルリン会議の内容も踏まえると色々と複雑ですので一概には言えませんが、個人的な所感としては「既存の植民地を維持するための財政もままならない中で、他の列強に負けじと欲を出したが、超大国イギリスの前で自国の政治力の弱さが露呈し、更には既存の植民地の領有権すら危うくなったことで一気に国王の権威が失墜した」といった感じです。
6) バラ色地図自体は仏独との協議の下作成、公表されましたが、仏独政府はこの領有権の主張を認識した(Recongnise)だけであって、受け入れた(Accept)わけではありません。この辺りにも、同時代のポルトガルの国際的な政治力の弱さが窺えます。

6. おわりに

 総括として、本国ポルトガルと植民地モザンビークの関係は、本国と植民地の垂直的な関係性ではなく、西洋の大国の周辺部に位置付けられるポルトガルと、南アフリカ経済圏の周辺部に位置付けられたモザンビークの周辺部同士の繋がりであり、それは一般的な本国・植民地関係よりも希薄であった繋がりと言えるでしょう。

 もちろん、それは経済的な繋がりが弱いとしても、列強のパワーバランスの中でのみ逆説的に存在することが可能であった関係性といった文脈であって、「搾取をしていた、されていた」という関係性が強固に存在していたことを否定するものではありません。

 しかし、本書にもあるように、南アフリカやイギリス領アフリカにおける労働力の確保が、自国の責任の範囲外であるモザンビークで不平等に行われていたという事実は前者にとっても都合が良いものであり、そうした関係性の下でモザンビーク経済の基盤が規定され、ポルトガルはその状況に沿うように法整備をしていったに過ぎない、という見方が成り立つのも事実でしょう。

 一般的にはイギリスの植民地経営能力の高さは植民地に安定した統治と経済発展をもたらし、他国の植民地と比べても資本投資が多いことなどがそれを裏付けてもいますが、そういったイギリスの植民地をモザンビークの様な周辺から捉え、実態をより深く分析していくことなども面白そうだと感じました。


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