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[読書メモ] 円の侵略史:円為替本位制度の形成過程

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1. はじめに

【ジャンル】近代日本植民地金融政策史(概説・通史)
 保護貿易主義(英スターリング圏)やアウタルキー構想(独マルク圏)など、所謂ブロック経済構想の一つとして円為替本位による円ブロックの形成過程の概説を述べた本です。通史としての記述は先行研究に頼る部分も多いものの、当分野における時代縦断的な文献が少ないこと、豊富に紹介されている参照資料など、当分野に初めて手を付ける方にとっては非常に役に立つ教科書的な一冊である様に感じました。

2. 植民地銀行の形成

 日中・太平洋戦争(以下、大東亜戦争)や、それ以前の日清・日露戦争などにおける日本の帝国主義的な対外進出政策の動機は、専ら政治的なものであるという説が一般的ですが、著者は「明治の指導者達は経済的な進出を伴わない限り、進出地域における貿易・投資の機会を得ることができないと認識していた」という研究を引用しながら、日本の対外金融侵略の先手となった各特殊銀行の社史を中心として日本の植民地金融政策を論じています。

 しかし、台湾や朝鮮における植民地銀行の設立に関しては以前の記事でも軽く触れましたし、改めてWikipediaの様な縷述をしても屋上屋を架すだけでしょう。畢竟ずるに両地域に共通して言えることとして、貨幣が統一されておらず金融制度も未発達であった台湾・朝鮮において中央銀行は「銀行の銀行」としての役割だけでなく普通銀行業務も柔軟に行う必要があったことや、大陸経済圏と日本経済圏との間の緩衝地帯としての役割を求められたことから、日銀の支店ではなく独自の銀行を有することとなり、それぞれ台湾銀行(1899)と朝鮮銀行(1910)が日本の特殊銀行として設立されたことが挙げられます。

 その後、前者は華中や華南地域へ、後者は満州や華北地域へ支店を進出させて為替業務のシェアを拡大、それまで外銀支店などに独占されていた日本の外国為替の活動を停滞させると共に、被進出地域への経済的影響力を強めていきます。逆に、両行で異なることとしては、朝鮮銀行にはその前身として第一銀行支店時代の歴史があることや、朝銀券が日銀券を発行準備とした金為替本位であったことに対し、台銀券は金銀貨や地金銀を準備とした制度であったこと¹⁾などが挙げられますが、その後の経過としては大差なくなるため、詳細は割愛します。

 満州については、元々満州地域には横浜正金銀行や朝銀などの日本の特殊銀行が進出して中央銀行的な役割を担っていたりもしましたが、満州国建国と同年の1932年には正式に中央銀行(満洲中央銀行)が設立され、銀本位である中国経済²⁾との関係性がより深かったことなどもあり、石原莞爾や板垣征四郎ら関東軍の主張通り、最終的には金本位へ移行することを目標としながらも現実的な案として銀本位が採択されることとなりました。

 もっとも、この時点の日本では1930年に金解禁、翌年には金輸出再禁止が行われており、イギリスなどの先進国も金輸出禁止によって既に金本位制から離脱していたため、最終的に金本位へ移行するというのはあくまで理論上その方が好ましいという話に過ぎず、1935年には管理通貨制である日本円と等価で満州国弊がリンクすることが定められ、満州国も銀本位から離脱、円為替本位制度による円ブロック経済圏が形作られていきます。


1) この制度は厳密に何と呼べば良いのでしょうか。金銀複本位的ではあるのですが、兌換紙幣を発行している点は厳密な意味でのそれに当たりませんし、金地金本位の金銀複本位verだから、金銀地金複本位制度?(聞いたことない)もし詳しい方がいらっしゃれば、コメント欄にてご教授頂けると幸いです。尚、1904年には台銀においても日銀券が発行準備と定められます。
2) 厳密には、中国経済では貿易や為替には銀が主として用いられていたものの、一般大衆の間で事実上無制限に通用していたものは銅貨であり、両者に法定比価は設定されていなかったため、銀銅並行本位であったと言えます。 

3. 支那作戦地域における通貨政策

 日中戦争中の華中地域における軍票政策や汪精衛政権の中央儲備銀行の顛末については以前の記事でも触れましたので、本記事では、同行の設立以前に華北・華中地域での幣制統一を試みるも失敗に終わった中国聯合準備銀行について触れておきます。元々満州地域への進出を画策し、一時的に中央銀行としての役割を果たしていた朝銀ですが、満銀が正式に設立され、その計画が頓挫³⁾すると今度は華北地域への進出を試みます。しかし、朝銀券の信認を保てるだけの物資や正貨の保有は十分ではなく、こちらの計画も早々に頓挫、代わって華北地域での軍費支払いを担う通貨として期待されたのが、河北省銀行券でした⁴⁾。

 しかし、河北銀券による軍費支弁構想は日中戦争初期における不拡大方針を前提としたものであったため、戦局が山西や綏遠などの奥地にも拡大すると、やむなく河北銀券を法幣の発行銀行である中國銀行や交通銀行に預託し、それを法幣に変えて決済することとなりますが、国民政府が河北銀券の流通を禁止したため⁵⁾、先述の手法による法幣入手ができなくなり、元々河北銀券による軍費支弁構想は日中戦争初期における不拡大方針を前提としたものでもあったため、第三次の通貨工作が考案されます。因みに、占領地域なのだから軍政によって通貨の使用を強制すれば良いではないか、と思われる方もいるかもしれませんが、それは外国租界が存在するため不可能だったそうです⁶⁾。

 そして、第三次通貨工作案として議定されたものが、中華民国臨時政府らから5,000万円の出資(半分は日本円、残りは現銀)を受けて1938年3月に設立されることになる中国聯合準備銀行です。同行の目的としては、幣制統一などを担う中央銀行としての役割、それによる法幣排除及び軍費支弁、並びに為替などの普通銀行業務を担うことがありました。

 幣制統一に関して、既に流通していた朝銀券などの回収は円滑に進んだと言えます。法幣の回収については、聯銀開業間際における円の対法幣相場は100円:97.8元であり、円と等価とされた聯銀券によってこれを回収することは困難であったため、朝銀らによって円買法幣売が実行され、聯銀の開業前日になって円元が等価となったことで、円と聯銀券、聯銀券と法幣を等価交換として開業することとなりましたが、その結果は芳しくなく、その理由としては以下の様なものが挙げられます⁷⁾。

 ① 外国銀行の支援により、市場は聯銀券に対して法幣高であったこと。② 華北の民衆は国民政府が劣勢であっても法幣を信頼していたこと及び日常での商取引に法幣を使用することに何ら不便がなかったこと(つまり、聯銀券の流通拡大は専ら日本側の需要によるもので、民衆側に大きな変化は生じていなかったこと)。③ 聯銀券の所有が漢奸と見なされたこと。④ 華北における金融の中心地であった英仏租界では聯銀券に打歩が付かなければ流通せず、外貨両替も法幣でなければ行えなかったこと。

 これに加えて本書では、華北は供給地ではなく消費地であったため、物資の調達には日本の行政力が及ばない奥地に頼らざるを得なかったことなども挙げていますが、究極的には「中国の民衆の支持をえられなかったことが、聯銀券の流通を制限するに至った一大原因」でした。更に、太平洋戦争の戦局も拡大するに連れて中国からの石炭等の物資の輸出が増加する一方で、日本からの物資輸出が生産余力の低下や制海権の喪失によって減少したことで、聯銀券の価値を維持することすらが困難となっていきます。


3) 対日出超であった満州での為替業務を取り仕切ることで、朝鮮における対日入超の偏為替を是正しようとした朝銀ですが、投資収益を含む対日総合収支では満州でも赤字となっていたことに加え、上海からの大連向金為替が対日円為替より割安だったこと及び日銀券と朝銀券がパーであったことを利用した朝銀経由での日本への決済スキームにより、朝銀の資金繰りは悪化、大連からの日本への銀行送金に法外な手数料を課したことにより、満州における中央銀行としての適格性を疑われ、満銀が正式に設立されることとなります。
4) 河北省銀行というものが日本語だと文献が少なすぎてよく分からないのですが、中国人民政協の天津市委員会のサイトによると、1928年に天津に設立された新興銀行の一つで、同行の銀行券は地域通貨として法幣と同程度に通用しており、恐らく日中開戦初期に日本の管理下に置かれたものだと思われます。
5) 菊池『朝鮮銀行と横浜正金銀行』84-85. 尚、同論文には「37年11月1日、国民政府がこの河北銀券の流通を禁止した」とありますが、同論文及び本書も参照元としている箇所を開くと、中國銀行・交通銀行における河北銀行の預金口座から河北銀券が引き落とされ、河北銀行に返却された、という記載があるのみで、主語及び日時は明記されていません(今村『支那新通貨工作論』61-2)。
6) 今村『支那新通貨工作論』60.
7) 今村『支那新通貨工作論』96-7.

4. 大東亜金融圏の形成と崩壊

 本記事では以上の様に台湾、朝鮮、満州、華北地域での植民地金融政策を紹介しましたが、本書では他にも華中、華南、南方地域での政策及び英米の東アジアにおける金融政策にも触れ、最後に「大東亜金融圏の形成」という章で、大東亜共栄圏の金融版とも言える円為替本位による円貨決済圏構想について述べています。この構想における基本方針がまとまったものとして公表されたものが、太平洋戦争開戦直後の1941年12月25日に大蔵省によって起案された「我国対外金融政策の根本方針ニ関スル件」であり、本書において要約されているものを以下に引用します。

① 本邦を中心とする大東亜金融圏を設定し、㋑圏内各地域の通貨は、円をもってその対外価値基準、㋺発行準備、㋩対外決済準備とすること、㋥本邦と共栄圏の各地域、共栄圏内の各地域相互間および共栄圏内の各地域と圏外諸国との決済は、円により本邦を通じて行うこと。② 円及び圏内各地域通貨の対外価値を決定するにあたっては、共栄圏経済の円滑な運営をはかるため、㋑米英貨に基準をおく従来の方式を一擲し、日本円中心主義を確立すること、㋺円の圏内諸通貨に対する価値は、本邦のみならず共栄圏全体の経済が、他の広域経済に対する現状ならびに将来の見通しに基づいて決定されること、㋩圏内各地域通貨の円に対する価値は、それらの地域の資源、生産力、資本の蓄積、民度、物価状況等を勘案して、適正に決定されること。③ 圏内各地域の担当する金融経済的な地位と職分を詳らかにし、それに応じて、㋑圏内各地域の財政経済全般を指導すること、㋺本邦と共栄圏の各地域、圏内の各地域相互間および圏外諸国との国際収支を本邦において把握し、それら地域間の物資、資金、労力の適切な配分について指導と統制を行うこと、㋩現地における為替管理、貿易統制、物動計画、生産力拡充計画、資金計画および国際収支計画の樹立等、計画経済の運営と必要な諸方策の実施を指導すること、㋥大東亜共栄圏と独伊を盟主とする欧州広域経済圏との緊密な連携についても、深甚な配慮を行うこと。

以下より孫引きである。(つまり曾孫引き?)
多田井喜生編『続・現代史資料11』(東京: みすず書房, 1983), 604-606.

 上記の方針に基づき、南方作戦地域の各地で円を発券準備とした中央銀行が設立⁸⁾、更に外国や共栄圏内の為替取引の決済を日銀などに集中させ、そこに円と等価の固定相場を設けることで、円を指導通貨とした日本中心の大東亜金融圏の確立が目論まれます。尚、この等価の相場を設定するに当たり、南方の地域通貨は最大で2倍以上もの切下げが行われましたが、これにより円は実勢以上に割高となり、日本の輸入は戦前価格の2分の1に低下、日本の交易条件が改善されることとなります。勿論これは「ナチスがヨーロッパの被占領地域に強制した為替相場政策と同じように、重要物質の収奪を目的とする戦時為替政策の常套手段」に他ありません。

 上記の様に、短期的には日本にも経済的な利益をもたらしましたが、以前の記事でも紹介した様に、物資不足などにより中国ではインフレが進行するものの、為替相場が固定されていたために日本軍の現地における軍事費が膨張していきます。政治的な便宜により公定相場を変更することを渋った政府は銀行からの借入によって現地通貨を調達して軍事費に充てますが、これは軍費膨張の根本的解決になっていないどころか更なるマネーサプライの増加によりインフレが加速するという悪循環を呈することになります。

 この様に、圏内における物価格差の拡大にも関わらず、政治的な理由によって固定相場を維持し続けたことの他に、占領地域の通貨制度強化の名目で行われた日銀による借款(信用供与)には預金を引き出さないという密約があったために単なる「見せ金」と化していたことなど、大東金融圏における構造的問題は、究極的には日本の物資・資金不足などの経済基盤の薄弱さに起因するものであり、圏内の多角決済による最適通貨圏に近付くどころか、円の名目的な等価性を物理的に維持するために日本は厳しい貿易・為替管理制度を導入するに至り、事実、現地での円の価値下落が本国に伝播することを恐れたが為に、各地域の傀儡政府の下に発券銀行を濫立することに至ったとも言えるのです。


8) タイ、仏印を除く。軍政の敷かれた甲地域(フィリピン、マレーなど)と異なり、現地政権との協調方針が取られた乙地域(タイ、仏印)では、もう少し複雑な過程によって円の勢力圏内に包摂されますが、これを説明するには「特別円」というものにも触れなければなりません。しかし、これが非常にややこしいので、あくまでざっくりとしたイメージでお伝えすると、タイ・仏印の日本との決済には日銀などに設立された口座が使用することが取り決められ、その口座の引出しや両替に制限を付けることでタイ・仏印を為替的な影響下に置いた、とご理解ください。尚、為替以外にも借款などによる日本の経済的な影響力がありました。

5. おわりに

 著者は経済学部の教授となる前は東京銀行(三菱UFJの前身の一つ)に勤めていた方で、本書内には専門的な用語や概念が多く登場するため、金融や財務会計などに関する基礎的な知識が無ければ少々難しいかもしれません。又、二次資料が多いとは言え、紹介している文献の多さは質・量ともに非常に参考になるとは思いますが、柴田善雅氏も指摘する様に定量的な観測というよりかは制度的な枠組みの議論を重視しているため⁹⁾、行われた政策が実態としてどの程度のものであったのかを知るには自分でより一歩踏み込んでいく必要があるでしょう。

 日本の植民地金融政策を説明する上では、本来なら横浜正金銀行(正金)の歴史や特別円勘定、それを使用したなどにも触れなければなりませんが、長くなり過ぎてしまうので本記事では割愛しました。字数の関係から最後はかなり駆け足で紹介してしまいましたので、機会があれば別の記事にしてみたいと思います。興味を持ってくださった方は是非ご自身で本書を読み進めてみて下さい。少々古い本ですので、量・質に比してAmazonではかなり安く購入できます。


9) 柴田「円の侵略史」. 氏は他にも後半部分の拙速による記述の甘さや参考文献における一次資料の少なさなどを指摘しており、それらの課題も克服したものとして後に自身でも同分野における通史的な著作を上梓しています。機会があればそちらも紹介してみようと思います。

参考文献リスト
[主要文献]
島崎久彌『円の侵略史:円為替本位制度の形成過程』東京: 日本経済評論社, 1989. https://doi.org./10.11501/13311438.
 ※ 本記事における記述は全般的に同書より引用・敷衍されたものですが、便宜上ページ番号等は示しておりません。悪しからずご了承下さい。

[その他]
今村忠男『支那新通貨工作論』東京: 商工行政社, 1939. https://doi.org./10.11501/1903140.
菊池道男「日中戦争期にいたる朝鮮銀行と横浜正金銀行」『中央学院大学商経論叢』6巻2号 (2017): 73-92. 
https://cgu.repo.nii.ac.jp/records/656.
小林英夫『「大東亜共栄圏」と日本企業』東京: 社会評論社, 2012.
柴田善雅「島崎久彌著『円の侵略史:円為替本位制度の形成過程』」『社会経済史学』56巻5号 (1991): 686-9. https://doi.org/10.20624/sehs.56.5_686.

[中国語文献]
天津政协网「河北省银行史实记略」『中国人民政治协商会议天津市委员会』2022年11月29日更新. http://www.tjszx.gov.cn/xxyd/system/2022/11/29/030009519.shtml.


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