[読書メモ]「大東亜共栄圏」と日本企業
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1. はじめに
【ジャンル】近代日本植民地・経済政策史(論集)
著者は「本源的蓄積」に懐疑的な見方をしているのに、何故かマルクス経済学をテーマにすることも多い社会評論社から一冊拝読しました。基本的には著者がこれまでに個別に執筆した論文等を集めたものであり、内容は当時の企業活動について個別的にそれぞれ論じるというよりかは、当時の企業が海外進出する上で日本の植民地政策(特に経済面)がどの様にその下地として機能したのか、という点が重視されていたように感じます。
2. 植民地政策の第一段階
日本の台湾や朝鮮における植民地政策を辿るならば、それら諸地域を自国の経済圏に組み込むために行われた第一段階の植民地政策は土地調査と幣制統一、中央銀行の設立だと言えます。独立国としての長い歴史を有していた朝鮮での政策は台湾よりも若干の複雑性を見ますが、基本的には同様の過程で植民地化が進められました。
その第一段階として、土地所有権の確定と地租賦課のための土地調査が行われ、末端の村落部までへの権力機構の浸透が図られました。更に、軍事的な目的も兼ねて詳細な地図作成が行われましたが、これらにはイギリスの植民地政策が参考とされたり、明治維新後の本国行政での経験が踏まえられたと言います。
土地調査と並んで行われたのが幣制統一事業と中央銀行設立であり、この際に問題となったのが、従来通り銀本位制によって中国を中心とした銀貨経済圏に合わせるか、西洋列強との経済関係を意識して金本位制に以降した日本に合わせるか、ということです。金銀複本位的な折衷案が取られたりもしましたが、日本が1897年より始めた金本位制による銀貨経済圏からの離脱は最終的に台湾、朝鮮の金本位制の移行を以てその勢力圏の拡大を果たすこととなります。
3. 総力戦体制構築
著者は大東亜戦争に向けた日本の総力戦体制構築を論じる前に、第一次世界大戦での英独の比較によって総力戦の成否を分ける点がどこにあるのかを論じています。ドイツは短期決戦を想定していたため、熟練労働者の前線への投入が大量に行われ、戦線が膠着した後も陸軍省が彼らの産業界への復帰に積極的でなかったことは一般的にドイツの総力戦における敗因ともされていますが、他方のイギリスにおいても戦争当初は同様の理由で熟練労働者が大量に投入されています。
著者は英独の総力戦の趨勢における分水嶺となった点は「企業家と労働組合指導者を戦争遂行に協力させ得たのか否か」であるとしています。イギリスでは大戦が長期持久戦と化した段階で早期に軍需品の供給を管轄する政府・軍・企業を合わせた委員会が設置(1914年)され、翌年には軍需省も設立、後に英国首相となるロイド・ジョージが初代軍需大臣に就任します。同年以降は軍需省主導により、労働者の適正配置や労働組合との交渉も完了し、軍需生産は軌道に乗り始めます。
未曾有の近代的な長期総力戦において、全国民を鼓舞し、動員に駆り立てること自体は、多年に渡る大規模な戦争の経験によって欧州諸国はどうにか成し得ましたが、利潤追求が究極目的である民間企業を如何にして国家の戦略目的に従属させるか、この点においてドイツは企業家らとの連携に失敗し、統一規格での生産を実施することすらままならなかったと言います。
全くの新型の戦争であると言える第一次世界大戦の経験により、各国の軍関係者はこぞって総力戦体制の研究を始めますが、世界大戦にはほとんど参加せず、これまでの大規模な戦争も日清・日露程度しか経験したことのない日本で総力戦のイメージを国家全体で共有することは不可能に近く、総力戦体制の構築は難航を極めます。特に問題となった点は企業の秘密保持に関するものであり、総力戦体制の下では一元的な軍需品の生産管理が重要となるわけですが、それに必要となる各企業の能力に関する政府の調査命令や罰則規定などを定める法案について企業家とその意向を汲んだ議員らとの合意の形成が難航、シベリア出兵を目前に控えながらも、軍部と産業界の連携は希薄なままでした。
ワシントン体制の下、本国と植民地の中での連携した自給自足体制ではなく、国際市場との連携を強く意識していた日本企業が急速に軍部の総力戦構想に組み込まれていったのは五・一五事件、二・二六事件以降であり、それらテロ行為がそれまで軍部の意向を聞かなかった産業界のトップ(主に財閥系)らの転向を生み出したと言います。他方、政権奪取による国内改造を目論む皇道派と異なり、対外戦争での勝利による国内改造を目論む石原莞爾らの発想を中心とした関東軍は財閥の満州国への進出を拒んでおり、テロ行為によって企業家は軍の意向に逆らうことはなくなったものの、軍との綿密な連携関係の構築が実現していたとは未だ言い切れない状況でした。
係る状況下において、軍産連携の先駆けとなったのは新興財閥である日本窒素の朝鮮進出でした。一次大戦後、硝酸爆薬の民需転換に伴って起きた1920年代の硫安の過剰供給は激しい国際競争を生み出しましたが、その打開策として、朝鮮総督府が推進した産米増殖計画によって大量の肥料需要が生まれることを見越し、日本窒素は朝鮮に進出、この過程で朝鮮総督府との政治的・資本的な関係性が深められました。
30年代半ばには朝鮮以外でも軍産の連携が深められ、総力戦体制構築のため、石原莞爾らの主張を受けて「満洲産業開発五カ年計画」が始動、その過程で十五大財閥の一角である日産¹⁾が満洲国政府の要請を受けて満州に移転して在満主要企業の経営を一手に引き継ぎます。1937年より日中戦争が始まると、日本の傀儡国である内モンゴル自治区(蒙古国)に三菱や三井系の企業が進出、軍産の歩調が合わせられ始めます。
また、戦時統制化にあって発生が予想される闇市場を防止するには「もの」の統制だけではなく「利潤」の統制までもが必要であり、近衛文麿のブレーンの一員であった朝日新聞記者の笠信太郎は著書「日本経済の再編成」の中で「経理の公開」「利潤の上限設定」「配当の制限」を具体案として提示、「所有と経営の分離」の必要性を提起し、更にはそれらが法令による強制ではなく、企業による自治統制によって行われることが望ましい²⁾と説きました。これらの案は近衛内閣の商工次官岸信介の指導下で「経済新体制要綱案」として1940年に閣議決定されます。
これ以降も、軍・産・官の連携は深まり、総力戦体制のための産業の軍事化は進んでいきますが、先の岸信介の要項案にも大きな反対があった様に、企業の末端までの掌握は非常に困難でした。太平洋戦争勃発直前の時期にも統制を嫌う企業の態度は変わらず、1943年の軍需省設置に伴って公布された軍需会社法は政府による企業への命令権、損失補償、利益保証を規定するものでしたが、著者はこの法律が敗戦まで政府が企業の掌握を成し得ることができなかったことを物語っているとしています。
1) 日産(日本産業)傘下の自動車製造企業が後の日産自動車、日本工業がENEOSホールディングス、そして日立製作所が日立グループとして現在も存続しており、他にもSOMPOホールディングスなどが旧日産コンツェルン企業として知られています。
2) 要は企業経営の現代化としてコーポレート・ガバナンスの重要性が説かれたわけです。企業経営の現代化によって企業の利潤最大化が促進されれば、余計に国家統制との兼ね合いが難しくなるのではないかとも思いますが、本書にはこれ以上の記述はありません。企業を完全に支配することは元来不可能であるのだから、闇市場によって「もの」の統制が効かなくなるよりかは企業によって自律的な統制が行われた方が良い、ということでしょう。
4. 中国占領地域における軍票政策
軍票というのは、軍隊が物資の現地調達などのために発行する手形のことであり、最終的には政府より債務支払いが行われるとされています。日中戦争の当初、華中地域では日銀券が使用されていましたが、マネーサプライの急激な増加による日本経済への影響を考慮し、1937年より軍票が使用され始め、翌年の広東上陸後には華南地域でも軍票が使用され始めました。
軍票の流通拡大に一役買ったものが中支那軍票交換用物資配給組合(軍票組合)であり、これが日本から供給された綿や薬品類、砂糖などの生活必需品と軍票を交換したことで軍票の流通が促進され、1940年末に汪精衛政権の中央銀行である中央儲備銀行が設立されると、同行の不換紙幣である儲備券が軍票の代わりに使用されていきます。しかし、中華民国の紙幣である法幣を儲備券によって回収する幣制統一の試みが失敗したことにより、儲備券のインフレが進行、太平洋戦争の戦局悪化で日本からの物資激減などで更に加速されていきます。
なぜ儲備券による幣制統一が失敗したのかについては、法幣の影響力が強かったからだとしか説明されていませんが、大量発行によるインフレが起こったのは法幣も同じであり、この両者の比較を踏まえた上での要因の分析は本書内の研究では行われていません。軍票組合によって軍票の流通量が増えたとは言え「日本人以外は軍票を使用せず、日本製品を購入する時のみ軍票が必要だった」だけであり、前線近くならまだしも、軍票工作の中心地であった上海でこの様態ですので、それ程に法幣の影響力が強かったということでしょう。
上海と近隣地域を合わせた蘇浙皖三省における法幣の推定在高が約30億元であったのに対し、1942年6月末における法幣回収額は11億3,000万元弱であり、予想されていた回収額の半分にも満たない程度であったそうです。戦争が長引くに連れ、軍費は益々必要になるにも関わらず、法幣の回収が進まなかったことの帰結は儲備券の激しいインフレであり、1936年と比べ、1945年の物価指数は1,000倍以上にもなっています。
5. おわりに
本記事では主に民間企業を戦時経済へと包摂する過程としての総力戦体制の構築、そして植民地・占領地における日本の経済圏の拡大について紹介しましたが、本書は労務政策など他にも幾つかの点から日本企業の活動を論じ、個別的な企業の分析としても石原産業の事例を取り上げています。
また、総力戦体制の構築が植民地における統治機構を強化したことに着目し、それが後の東アジアの経済発展にどの様な影響を及ぼしたのか(若しくは及ぼさなかったのか)という点についても議論を行っています。同時代における日本の経済圏の拡大については、現在読み進めている途中ではありますが、島崎久彌著「円の侵略史:円為替本位制度の形成過程」が詳しいので、いずれそちらも記事にしたいと思います。