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[読書メモ] 自由貿易帝国主義 "The Imperialism of Free Trade"

【本記事は6分で読めます】


1. はじめに

【ジャンル】近代イギリス帝国史(論文)
 イギリス帝国史研究の中でもかなり大きな存在感を示す、非公式帝国論を基礎とした自由貿易帝国主義についての先駆的論文です。近代イギリス史などを研究している方にとってはあまりにも有名な論文でしょうが、知らない方も多いと思いますので、記事にしてみました。

2. イギリス史研究のアポリア

 従来の近代イギリス史(主にヴィクトリア朝)研究では自由貿易主義や少英国主義などを中核とする反帝国主義が同時代の特徴とされてきましたが、実際にはその間にも帝国の拡大は続いており、反帝国主義が最も高まりを見せたとされる自由党の第一次グラッドストン政権(1868~74)時でさえ、1868年にバストランド、1871年に西グリカランドを南アフリカ(ケープ植民地)の安全保障のために併合しており、ヴィクトリア朝を通して放棄されたイギリス植民地もありません。また、インドでは重商主義的な植民地政策も取られています。

 では同時代のイギリスが前時代的な帝国主義的政策を続けていたのかというと、そうでもありません。反帝国主義によって促進された自治領含む地方分権化政策は続けられましたし、領土併合に関してもその意思決定にはかなりの消極性が見られます。この様に、従来の帝国主義、反帝国主義だけでは同時代の帝国史を正しく捉えられないとして弁証法的に生み出された枠組みが本論文のタイトルにもある「自由貿易帝国主義」です。

3. 自由貿易帝国主義

 さて、この歴史的な枠組みを簡単に言うと、これまでの自由貿易主義に基づくイギリスの外交方針が「貿易すれども統治せず」であったとするならば、これにおける矛盾を解消した自由貿易帝国主義における方針とは「可能であれば非公式な支配の下で貿易、必要であれば統治して貿易せよ。」というものになります¹⁾。

 非公式な支配とは、支配対象を正式な帝国領に組み込むことなく、経済的、政治的、或いは文化的に支配することを指します。植民地の直接統治は総じてコストが高くなり過ぎるため、支配対象はなるべく非公式な支配によって経済的、政治的、或いは文化的な影響下におき、それができない場合、或いはその非公式な支配が本国の利益を損なう場合にのみ公式に帝国が統治する、というものが非公式帝国論です。

 その中で、自由貿易によって得られる利益の拡大を重視したものが主にヴィクトリア朝イギリスに見られる自由貿易帝国主義だと位置付けられます。産業革命によって爆発的に増大した工業力によって生産品を輸出する本国、その原材料や食料品などを本国に輸出する非公式含む帝国領という貿易市場における関係性の構築、そこにおける比較優位²⁾含む貿易上の優位や付随する金融資本の投資活動などによって総合的に本国に利益が生まれる状況を公式・非公式に生み出していく政治方針が自由貿易帝国主義と言われるものになります。


1) "'trade not rule' should read 'trade with informal control if possible; trade with rule when necessary'."
2) リカードの提唱した比較優位説は双方を利するものとされていますが、実際の貿易構造は純粋な経済力学だけで決定されるものではありません。メシュエン条約なども、ポルトガルのイギリスへの政治的な従属性が生み出した経済的な従属、つまりイギリスの非公式帝国の拡大と見ることができるでしょう。

4. 南米における自由貿易帝国

 本論文ではブラジル、アルゼンチンを自由貿易帝国主義に基づいて拡張されたイギリス非公式帝国領の一部と見なしています。ナポレオン戦争時、本国ポルトガルのイギリスへの政治的な従属性が決定的となったことも受け、ブラジルは国内市場をポルトガル以外にも開放、更にイギリスとは通常25%の関税を15%に引き下げる条約を締結させられます³⁾。その結果、ブラジルにはイギリス製品が大量に供給される市場となり、イギリスの非公式帝国領としての役割を果たします。その後、奴隷制の廃止を巡ってブラジル政府はイギリスと対立しイギリスの影響力は一時的に弱まりますが、イギリス資本による鉄道建設はブラジルに好意的に受け取られ、両者の結びつきは再び強くなっていきます。

 アルゼンチンの場合はイギリスの非公式帝国の拡大がより顕著に見られた地域であり⁴⁾、引用されることも多い事例です。アルゼンチンにおいてもブラジル同様のイギリスの経済進出が行われましたが、海外貿易によって栄えるのは基本的に沿岸部の都市です。ブラジルの場合は内陸部のアマゾン地帯には人口はほとんどありませんが、アルゼンチンの場合は中央部であるパンパ地帯にもそれなりの人口があるため、イギリスとの海外貿易が発展するにつれ、経済格差が拡大、詳細は割愛しますが、1814年より内乱が発生します。

 内乱の最中に独裁政治を敷いたロサスはイギリスの商業活動に非協力的であり、またロサスの拡張政策がもたらすウルグアイでの政治的混乱は同地域におけるイギリスの商業活動を脅かすものでした。これを受けてイギリスはより直接的な介入を実行、著者は決定的な要因はイギリス貿易の魅力であったとしていますが、ロサスを失脚させることに成功します。この後、アルゼンチンは対イギリス貿易によって自国の畜産業などの輸出を大きく成長させ、それに伴ってイギリスからの投資額も増大、イギリスとの経済的な繋がりを強めていきます。 


3) 詳細は1810年のスタングフォード条約などで検索すると良いかもしれません。もっとも開港政策に関しては、元々イギリス商人が非合法にブラジル国内で活動していたのを追随的に承認したに過ぎない、という説があります。
4) 1914年のイギリスの対外投資の内訳を見ると、アルゼンチンへの投資額はブラジルの二倍以上もあります。

"Europe The World’s Banker 1870-1914" by Herbert Feisより抜粋

5. アフリカにおける自由貿易帝国

 アフリカにおける英領植民地は、南米と異なり非公式な支配が成立せず、やむを得ず併合に至ったケースだと言えるでしょう。サハラ以南のアフリカ(Tropical Africa)について全般的に言えることは、一部の旧態的な帝国主義者達の積極的な拡張政策を望む声は本国にも存在したものの、党首達は基本的に直接的な統治には消極的であり、保守派の帝国主義者と言われるソールズベリーでさえ、1888年にニアサランドでの拡張政策を求める声があった時にはリスクが大きすぎると返答しています。

 しかし、サハラ以南には大規模且つ安定した政治構造が存在しないためにイギリスの商業上(或いは人道上、戦略上)の安全が保証されないこと、他の列強の勢力拡大などを受け、結果的にイギリスは併合に「追い込まれた」とされています。イギリスの経済的な負担を減らし、非公式な支配を試みる代替案として、外国に領有権を認める代わりに同地域での自由貿易と市場参入を保証させるというものや、民間企業に勅許を与えることによって地域の統治と財政を任せる、といった施策も行われましたが、結局は国際情勢の変化を受け、イギリスの直接的な統治領域が拡大することになります⁵⁾。

 エジプトに関しては事情がもう少し複雑で、19世紀末には財政難に陥っていたエジプト政府は英仏の共同財政管理を受け入れますが、これが国内の反ヨーロッパ感情を招き、反乱が起こります。単に政治的不安定さによる商業上の不利益に加え、スエズ運河というイギリスにとって最も重要と言える戦略上の要所が脅かされたこと、フランスの介入によってスエズ運河がフランスの影響下に置かれる可能性などを受け、イギリスは軍事介入を実行します。

 イギリスの目的はあくまでも安定した統治機構の再建であり、それが達成されたならば軍の撤退を予定していましたが、一連の動乱はエジプトの統治機能を大きく衰弱させ、イギリスの長期に渡る直接的な統治がなければ非公式な支配は望めない状況でした。「宝石箱」とも称される英領インドと本国を繋ぐ上でエジプトの安全確保はイギリス本国にとって最重要事項であり、結果として、こちらも公式な帝国領に組み込まざるを得なくなったのでした。


5) 主な勅許企業としてはBSAC(イギリス南アフリカ会社)などがあり、イギリスのポルトガルに対する1890年最後通牒には同社の思惑も関係しています。主要な国際情勢の変化としてはベルリン会議1884-1885で占領地の実効支配が義務付けられたことなどが挙げられるでしょう。

6. アジアにおける自由貿易帝国

 清において、イギリスが政治的な影響力を強めたにも関わらず商業圏の拡大には至らなかった事例はイギリスの非公式帝国の拡張政策の失敗例と見做されています。中学・高校で習ったかと思いますが、清の経済圏は根本的に自給自足であったため、イギリスの商業参入は難しく、悪名高いアヘンの輸出を始めます。イギリス国内でも反対の声が大きかったこの政策は、結果としてイギリスからの輸出量を増やすことには成功しますが、清からの輸出量は変動せず、それどころか太平天国の乱などによって清を政治的に不安定にしただけでした。

 これまでの例で見てきた通り、不安定な政治体制というのは民間の商業活動を難しくするだけであり、自由貿易帝国主義においては本国に百害あって一利もありません。一般的な印象とは裏腹にイギリス本国でも清における混乱を招いたことは恥だと捉えられ、その後の乱の最中では、その混乱に乗じて清政府に付け入るのではなく外交的な支援を展開し、列強の分割期にあっては清政府がイギリスの仲介に大きく頼るようになったと言います。

 一連の事件によって自国のアジア方面でのプレゼンスの弱さを実感したからなのかは分かりませんが、イギリスは日本に対しては従前の不平等条約を改め、日英同盟締結という形で関係を深めます。勿論、自由貿易帝国主義的な資本投資なども活発であった⁶⁾ことは確かですが、ロシアの南下政策抑止というイギリスの国家戦略、そのための日本の工業化への支援などが同盟締結の主要因であったことは確かでしょう。そのため、本論文において日英修好通商条約以外の日本への言及はありません。


6) 注釈4参照。日本の証券がロンドン市場で流通するようになったことも受け、アジア方面においては中国や英領マラヤを抜いて、最も多くの投資が日本に対して行われています。

7. おわりに

 近代のイギリスが帝国の領土を拡大することを目指していたわけではないという内容でしたが、それは左派的な理由からくる反帝国主義ではなく、商業圏の拡大を求め続けるという様な意味で帝国主義的政策は確かに存在したと言えるでしょう。この辺りは若干複雑なのですが、今回紹介した論文が帝国の拡大を「周辺」における要因に求めたのに対し、それを再び帝国の中心である「ロンドン」の投資家らにあるとした研究(ジェントルマン資本主義)もあり、こちらは帝国主義に関する研究史も含めて別記事で紹介しておりますので、是非そちらもご覧下さい。

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