【依存体質】「諦めるべき理由」を相手に探す人
片思いでも交際していて振られても、縁が切れた後で相手の情報を必死に探る人は一定数いる。
共通の友人にそれとなく近況を尋ねたり、フェイスブックやインスタグラムなどのSNSを毎日欠かさずチェックしたり、相手が「今どんな過ごし方をしているか、誰と仲がいいか」を把握したがる。
以前、30代の男性が「(元カノに)新しい彼氏ができたら諦めるつもり」と話していて、「それをどうやって知るの?」と訊いたら
「ツイッターに何でも書く人だから、彼氏ができたら必ず投稿すると思う。だからたまに見てる」
と答えていて、自分がアカウントを知っていることをその元カノさんは「多分気づいていないと思う」と言っていた。
こういう人は男女関係なくいて、「諦めるべき理由」を自分で決めるのではなく相手任せにしているんだよね。
相手に恋人ができたと”知ったら”諦める。裏を返せばその人がそれを公にしない限り本当のことはわからず、
「とっくの昔に新しい彼氏と交際がはじまっているけど、SNSにわざわざ書いていないだけ」
の現実があるかもしれないのだ。
その可能性がわかっていても、自分たちのつながりを相手の動向に任せる依存体質の人はチェックがやめられない。
”目を皿のようにして”新恋人発覚の事実を探す。待つ。におわせでもいいから「これだ」と思うものがないか文章を読み込む。
なんて不毛な時間なんだろうと思うけど、当人にとっては”そんな自分”で恋心を育てている状態に違和感がなく、要は未練を引きずりまくって後に引けないだけなのだ。
こういう人に「好きなら告白すればいいのに」と言うと、「別にそこまでする気はない」と困惑したように答える。
告白するほど好きではない、そこまで執心していない、まあまだちょっと好意があるので「相手に新しい恋人ができるまでは好きでいよう」程度の関心しかない、というポーズだ。
先の男性は半年ほどそんな状況で過ごしており、「また付き合いたいならそう言えば?」と勧めると「絶対に振られるし。今のままで不満はない」とすぐに言葉を返した。
自己完結だよなぁと思う。
勝手にチェックして勝手に情報を集めて、「まだ大丈夫」「まだ関心を向けていい」と自分に言い聞かせている状態が、果たして幸せなのかね。
聞いてみると、元カノに電話しなければLINEも送らない、ツイッターをチェックする以外に行動を起こしていないので、相手に迷惑をかけていないとはいえる。
本来誰でも見る権利のあるSNSなら、こそこそと投稿を読むのを咎められるいわれはないので、そこにすがる気持ちもわかる。
だが、行動を起こさない以上は相手に自分の好意が伝わることもないわけで、さらに「相手の新恋人待ちの片思い」なんて、歪んでるし純粋とはとても思えない。
本当のことがわからないままで不毛な片思いを続け、いざ諦めるときを迎えたら自分はひとりぼっちになる。
その現実を見ていない。
あなたの本音はどこにあるのだろう、と訊きたいが、こういう質問を依存体質の人はものすごく嫌う。
本心を暴かれるのは恥で、「また愛されたい」「幸せになりたい」という欲望を認めることは、それが叶わなかったときの絶望までセットで考えるから絶対に見ない。
「相手に新しい恋人ができない以上は好きでいていいはず」、という思い込みは、”好きでいたい”という本音の裏返しなのだけど、好意を抱える自分を認めると次に「愛されることを望んでも拒絶される結末」が浮かぶので、無責任な片思いに身を置くのだ。
当人は口にしないが、「自分はこうするしかない」と決め込んでいるのが一番問題で、関係を相手任せにすることでしか心が安定しないのだ。
諦めるのは相手に恋人ができたとき。
それまでは”何も行動しないのだから”好きでいてもいいだろう。
これが依存でなくて何なのか。
どんな恋愛も未練もその人の勝手なので私はあれこれ口を出さないが、”その自分”について窮屈さを覚えない、むしろ安堵している状態を見ると、自信のなさや劣等感が深いのだろうなと思う。
”もしかしたら思い出してくれるかも””そのうち連絡が来るかも”と思っていなければ相手のアカウントをチェックし続けるなんてことはできないわけで、「関心を向けられる自分」を見てからじゃないと動く勇気が持てないのだ。
これが依存の本質で、愛されたくてたまらない飢餓感を無理やり押し込めて見ないフリをしているから、いつまで経っても報われない。
望む幸せはやって来ない。
「愛される自分」は叶わない。
人は鏡なので、「愛する自分を見せないのに相手からは愛される」なんて現実は、やってこないのだ。
こんな話は男女関係なく本当に繰り返し耳にするけど、興味深いのは、こういう人は「新しい出会い」も探しているところ。
中途半端な片思いを手にしながら、その一方で”ご新規さん”の登場を待つ。
マッチングアプリに走ったりほかにつながりのある女性と個人的な関係を深めようとしたり、「ちょっと動いている」のがわかる。
たいていは色よい返事がなかったりつれない態度を取られたりしたらすぐに引いていて、後味の悪さだけが残り、結局また不毛な片思いにしがみつく。
未練があっても一途になれず、「愛される自分」を手っ取り早く叶えてくれる人を求め、どこまでも満たされない。
自分の思いに無責任だからそんなことができるわけで、愛情にエネルギーを持てないのが依存体質の人なのだなとつくづく思う。
安全地帯から小石を投げるようなやり方では、誰も振り向いてはくれないのだ。
自分がそんな人間に関心を向けないのと同じように。
「諦めるべき理由」を相手に探す人は、自分を大事にする気がないと見ていて思う。
相手に迷惑をかけていないし傷つくのも自分だけ、殻にこもって「誰からも責められないはず」「大丈夫なはず」と思うのはいいが、じゃあその自分は誰が愛してくれるのか。
何もしない以上愛されることはない、求めているのは相手の愛情のはずなのにそれを避ける矛盾、相手に新しい恋人ができて「ああ好きでいてはいけなくなった」と周りを見れば、無為な時間を過ごして誰とも親密になれなかった自分だけが残る。
これが現実。
自愛がないから無責任になれる。
その結果、孤立するのもまた自分であって、「誰からも責められないはず」の安堵は裏から見れば「誰からも愛されなくて当然」になるのだ。
自信のなさとか劣等感の深さとか、向き合うのはしんどいよねぇ。
傷つくのは誰だって怖い。私も恥をかくと後々まで引きずるからなるべく避けたい。
それでも、好きと思える人は大事にしたい。
その人を好きな自分を好きでありたい。
愛情を慈しむ姿勢を相手に知ってほしい。
できるなら、笑顔でその愛情を育てていきたい。
誰かを好きになる自分を、恥ずかしいなんて思ったらあかんのよね。
未練でも片思いでも、胸を張って好きと言えることが自信になる。
シンプルで一番強い、「人を愛せる自分」。
人に向ける愛情は自分のためじゃないの、って話。
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