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1か月も経たないうちに、また釧路に来たよーNO2(JR北海道 釧網本線に乗る!)
塘路湖 (とうろこ)は北海道東部、標茶町にある淡水湖で、釧路湿原国立公園にある。いくつかの河川が流れ入り、そして釧路川に流出している。
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親子二人のカヌーにインストラクターが1名乗り込んでくださった。
私たち親子は、気が向いたらパドルを漕ぐ。
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塘路湖を抜け出て、
カヌーは、湿原を分かつアレキナイ川へ。
左右岸には、野生動物の姿を見ることができた。
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そして、川から岸へ上がる「ミンク」も発見。
ミンクというと高級な毛皮のコート。
昔、釧路地域には、ミンクの工場があり、ミンクの飼育場があったそう。
2001年に閉鎖されたあと、飼育していたものを放棄したり、脱走したり。
そのまま生きながらえていて、湿原に今でも姿を現す、
とインストラクターが話してくれた。
たっぷり2時間半。天気も持ちこたえてくれて、釧路湿原の内部を
詳しく知ることができたカヌーだった。
カヌーは、細岡駅周辺に到着。
そこから車で、出発地点の塘路湖まで送ってもらう。そこで解散。
その後、徒歩で塘路駅へ。
その間を散策。
標茶町博物館「ニタイ・ト」では、地域の自然や野生動物、アイヌの方々の
暮らしぶりが分かった。
クマ祭りと訳されるアイヌの儀式「イオマンテ」には、
写真付きの展示に
ショックを受けた。
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北海道集治監釧路監本館の役割は、ショッキングだった。
北海道集治監釧路監とは
北海道開拓の労働力不足を補うために、全国の監獄から送られてきた刑期10年以上の重刑囚を、樺戸集治監(明治14年開設/月形町、現・月形樺戸博物館)、空知集治監(明治15年開設/三笠市、レンガ煙突のみ現存)、標茶の釧路集治監(明治18年)に送り、道路の建設など過酷な使役に使ったのです。
釧路集治監に収監された囚人は、明治29年には1371人を数えていますが、有期徒刑695人、無期徒刑649人、有期流刑12人、懲役終身者65人という内訳でした。
当時は、庁舎1棟、官舎18棟、獄舎19棟、工場5棟、倉庫11棟がありましたが、現存するのは庁舎1棟のみとなっています。
釧路集治監の囚人の労働は、明治19年、アトサヌプリ(硫黄山)で硫黄採掘から始められました。
標茶・厚岸間道路、標茶・釧路間道路、硫黄山・網走間道路、網走・上川間中央道路、厚岸屯田兵舎などにも従事しています。
道路開削では、原野に飯場を築いて寝起きしましたが、ヒグマに襲われる過酷な環境と寒さで、命を失う囚人も多かったといいます(道路建設は明治27年頃までで、その後は農業に従事)。
食料も、自給自足を基本としたので、周辺の土地を開墾し、牧場も開いています。
明治18年に開設した釧路集治監は、明治21年に釧路監獄署、明治23年に釧路集治監、明治24年に北海道集治監釧路分監と名前を変え、明治34年に歴史を閉じて網走分監に移されています。
16年間にわたる歴史のなかで、死亡した囚人は505人を数えているので、いかに過酷な生活だったかがわかります。
釧路〜標茶〜川湯〜網走を結ぶ国道391号もルーツは囚人たちの使役で開削された囚人道路で、細岡展望台の東側(釧路町遠矢〜達古武)には仮監峠(かりかんとうげ)と名のついた旧道の峠、峠越えの道(ダート)も残されています。
北海道の開拓は、囚人たちによるところが大きいことを知った。
お昼は、駅まで行く途中に会った「プレッツェモーレ」の牡蠣パスタ
とにかくおいしかった!モチモチの麺。
今まで食べたパスタの中で、一番だな。
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塘路発12:17 湿原ノロッコ号で釧路へ戻る。
乗車して間もなく、雨が降ってきた。
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国内唯一の坑内堀炭鉱
フィッシャーマンズMOOで買い物。
この段階でお土産を買うのは尚早と、ふらっと1周。
息子は大学生にもなって、幼い子どもに交じりながら、駄菓子屋で
長い時間かけて買い物。
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土砂降りの中、MOOのすぐ前にある宿 カムイレラに走って戻る。
この二日間、私しか宿泊者がいないため、1棟貸し切り状態。
広くておしゃれな共有リビングで、
ほぼ半日、息子と二人、テレビを見て過ごす。
日ハム対ロッテ、9-3で日ハム勝利。
夜は、外に出ていく勇気もなく、宅配ピザを食べる。
どんな話をしていいか考えている間に、時間は過ぎていく。
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広くて清潔で、なんでも揃う
久しぶりに過ごす自宅(にいるような)時間。
今になっては、日常でなくなってしまった息子との「日常」の風景。
まだまだ一緒にいたい気持ちのまま
大雨の中、バス停まで息子を送り届ける。
バスに乗り込んだ息子、またしても、後ろを振り返ることなく帰る。
(寂し…)
カムイレラに戻る。
昨日は、貸し切り状態をウキウキしながら謳歌していたのが嘘のように、
寂しさがこみ上げる。
息子に会いに来た釧路の目的は、とりあえず達成してしまった。
明日からは、本当の一人旅。
続きは…。
あるのか…?