道具にするな
ただいま卒業式の練習期間中。
教頭から
「先生もわかってると思うけど、式歌ひどいから練習必要だと思うんだよね。」
全校生徒50人足らず。しかもコロナで授業中さえ歌唱活動は控えているから声なんて出るわけない。
だからといって歌わなくていいなんて思っていない。
タブレット使ったり、人数分けたり、できる工夫をしながら練習させてきた。
声はたくさん出してくれた方がいいよ、おうちの人に自分の声が届くといいね、でも声の大きさだけじゃないよ、そこにどんな気持ちをこめるか、それが相手に届くようにどう歌うか、そこが大事だよ。在校生もそうだよ。3年生に伝えたい気持ちあるでしょ。
そう指導してきた。
前回の練習では、本当は3年生だけで歌いたい、と言った3年生の想いを大事にしたくて、わざと3年生だけで歌う場面も作った。
伝わる人には伝わって、全体の音量が小さくても3年生だけの方がいいですね、心に響きました、と言ってもらえた。
でも、やっぱりほとんどの人、特に管理職にとっては、「式を盛り上げる道具」なんでしょう。
声が大きい方がいいのね。
もちろん練習させてもらうつもりでしたよ。週1時間の授業じゃ、合唱練習ほとんど意味ないもの。でもさ、その言い方はないよね。「ひどいから」って、生徒の気持ち込めた合唱も、工夫して練習させてきた苦労も全否定だ。
校長の「最後だから1,2年生一緒に歌って盛り上げてやってほしいんだよね」っていうのも、まぁそうでしょうけど、そもそも自分たちだけで歌いたいって言ってるのに在校生混ぜて、しかも盛り上げるって、あなたの言う「盛り上げる」は「大声で」ですよね?
あなたたち、この前どこで練習見てた?体育館の一番後ろだよね?そこは当日だーれもいないところだよね?式歌の場面で「聴く」立場の人がいるところで聴けよ。卒業生と、在校生の間の、保護者席で聴けよ。どう聞こえるか、何を感じるか、きちんと「聴け」。
ほしいのは「大声の合唱」という効果音。
人間が歌う、「想いの合唱」ではないのだな、と思ったら、泣けてきた。