「祈り」を撮る 金川晋吾写真展『祈り/長崎』
恵比寿のギャラリーMEMで開催中の金川晋吾写真展、『祈り/長崎』を見てきた。金川さんは今年の木村伊兵衛写真賞の最終候補に選ばれ、写真の町東川賞新人作家賞を受賞した写真家だ。
金川さんはこれまでに2冊の写真集を出版している。失踪癖のあった父親をテーマにした『father』。長年消息不明だった叔母を撮った『長い間』。そして、今年7月に刊行予定の『祈り/長崎』が3冊目になる。
写真展、「祈り/長崎」は、長崎の祈りに関わる場所や物、人々の営みを撮った33点の写真で構成されている。
長崎は日本における「祈り」のメッカのような土地だ。17世紀から19世紀に亘るキリスト教禁教政策のなかで弾圧を恐れながら密かに信仰を続けた潜伏キリシタンたちの独自の文化がいまだに根付いていて、それにちなんだキリスト像やマリア像、教会等を街の随所に見ることができる。
そして、原爆。
長崎は広島に次いで原爆が落とされた街だ。広島と長崎は、同じ被爆地でありながら、その様相も捉えられかたも異なっており、それを評して「怒りの広島 祈りの長崎」と言われている。市内の平和公園に立つ彫刻家・北村西望作の平和祈念像も祈りの場と言っていいだろう。
もともとは金川さんの東京藝大の学生時代の友人だった彫刻家で出版社主宰の小田原のどかさんの依頼で長崎を撮ることになったのだが、当時、「祈り」や「信仰」について作品を作ろうと試行錯誤していた金川さんにとって、長崎は、期せずしてうってつけの土地だったのだろう。以降、足掛け8年に亘って長崎に通うことになる。
写真展は、庭のような場所に置かれた小さなマリア像を斜め背面から遠目に撮った写真で始まり、祭服を着た若い神父と金川さんが並んで撮られたポートレートで終わる。1点めは信仰という営みのささやかさ、日常の片隅に根付いた神を信じるという行為の尊さを表しているように感じる。そして、最後の1点は、信仰しようとする者と導く者とを並置することで、神を信じようとする自身を相対化しているような意図を感じた。
写真を見て気づいたことがある。被写体を背後から撮った写真が多いのだ。イエスの像や平和祈念像、香台(信徒の家にある礼拝所)の前で手を合わせるキリスト教徒の親子等、顔が見えないように撮影している。表情の見えない写真は言語ベースでの意味というものをあやふやにする効果がある。つまり、写真そのものの一番美味しい部分を引き出すメソッドの1つだと言っていいのかもしれない。意識的にか無意識的にかは分からないが、金川さんの写真からそんな印象を受けた。
もう1つ、『祈り/長崎』というタイトルであるにも関わらず、金川さんのセルフポートレート(ヌードを含む)が複数組み込まれている。なかには平和祈念像と対になるように撮影されたものもある。自らを重ね合わせることで、平和祈念像を解ろうとしたのだろうか。対象を知る、理解しようとするさいに、その対象を模すことは1つの方法だ。
金川さんの信仰に対するスタンスはユニークだ。
「私は教会に通っているうちに、次のようなことを思うようになっていた。それは、神を信じるということは、信じるか信じないかのどちらかにはっきりと切り分けられるようなことではないということだ。信じるということは、信じようとすることや信じたいと思うことであって、それはつまり信じるということのなかには、信じられないということも含まれているのである」(金川晋吾/展覧会のハンドアウトより)
金川さん自身は2011年に洗礼を受けたキリスト教徒だ。とはいえ、信仰とは無縁の一般的な家庭で育ち、キリスト教を勉強してその教義に感銘したわけでもない。そもそも「神を信じる」という摩訶不思議な人の営みへの興味関心が先にあって、それを写真を使って作品化することが教会に通うことの当初の目的だった。洗礼を受けたことで金川さんが筋金入りのキリスト教徒に変わったとは思えない。いまだに「神を信じるとはどういうことか?」という疑問を写真によって模索しているのだろうと思う。
金川さんは長崎を撮った。しかし、誤解を恐れずに言えば、長崎を撮ってはいない。金川さんは信仰を、神のような超越的存在を信じようとする人々や場所の内奥にある何かを撮ったのだと思う。祈りを撮るうえで長崎はベストな土地であったのかもしれないが、絶対ではない。乱暴なことを言えば、どこでもよかったのかもしれない。
これまで何人もの写真家にインタビューをしていて気づいたことがある。優れた写真家は、被写体やテーマを頭で捻り出すのではない。被写体やテーマに「呼ばれる」のだ。東日本大震災の直後に写真集『東北』で木村伊兵衛写真賞を受賞した田附勝は「東北に呼ばれたのだ」と言っていた。森山大道が撮った『三沢の犬』も同じだ。金川さんにとってはそれがたまたま長崎だったということに過ぎないような気がする。
展覧会初日に催されたトークショウで金川さんは「写真というメディアは信仰のような目に見えないものを撮ることには向いていない」と語っていた。しかし、はたしてそうだろうか? むしろ、見る側にその多くを委ねざるを得ない性質を持つ写真だからこそ、目に見えないものを見る者に伝えることができるのではないだろうか。
写真というメディアは、小説や映画と比べて、分かりにくいメディアだ。失踪した父を撮った『father』にせよ、消息不明だった叔母を撮った『長い間』にせよ、金川さんはその「分からなさ」と向き合って撮影をする。それは『祈り/長崎』も同じものを感じる。
写真とは分からないものを分からないままに作品化し、提示できるミラクルなメディアだと思う。そして、金川晋吾は間違いなく、写真が持つその特性を熟知し、意識的に使いこなせる知力と胆力を持つ稀有な写真作家だと思う。
そんなことを思わされた写真展だった。
展覧会は6月2日まで。