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【小説】『鰤大根』 7
賄い部屋に下りた。
寒鰤は、昨夜のアラが残っていた。
一口大に切り分けた。
成美は大根を乱切りにした。思ったよりも上手い包丁捌きだった。
「お祖母さんに教わったの?」
「いいえ、自己流です。お祖母ちゃんは、高校を出る前に亡くなっちゃったから」
細切れのアラを落しそうになった。
恐る恐る大輝のことを訊いた。
「父は、私が小さいときに亡くなったんです。お酒の飲みすぎだったんです」
白い肌を晒した大根を切りながら、屈託なく笑った。
「あのう、あたしってやっぱり変ですよね?」
「えっ、なぜ?」
「だって、父の死を笑いながら話す子どもなんていませんよね。でも、あたし、どうしても笑い出しちゃうんです。だって、そうしないと本当に気が変になりそうで」
あなたは笑っていい。あなたには笑う権利がある。家族を壊した父の死を笑っていいのだ。あなたを不幸にした父を笑っていいのだ。
では、母のことは……?
「お母さんは……、お母さんには恨みはないの?」
包丁が俎板にぶつかると、サイコロ大になった大根が勢いよく転がっていった。
「恨んでますよ。だって、お母さんが出て行かなかったら、あんな苦労しなくてすんだんだもの」
当然だ。恨まれて当然だ。向こうの両親が引き止めたとしても、娘を残して家を出ていったことは事実だ。
成美の手にする包丁が鈍く光っている。
その包丁で胸を刺されても、成美を非難はできない。むしろ刺して欲しい。恨みを込めて、母の胸を刺し貫いて欲しい。
そうすれば、私は本当に幸せになれるかもしれない、と千鶴は思った。
「でも、今は幸せですよ。すべてを包み込んでくれる彼ができたから」
千鶴は、ボールに入れたアラに熱湯を注ぎながら黙って聞いていた。
霜降りした鰤アラを水に落とし、汚れを取り除いた。柚子を細切りにし、生姜を薄切りにした。鍋にアラと大根、薄切りの生姜を入れ、酒と水と醤油で煮込んだ。
「でもね、結婚間近になって思ったんです。私だけが幸せになっていいのかなって」
ふつふつと鍋が鳴る。
「どんな経緯があったかは知らないけど、女が一人で生きていくのって、すごく大変だし、辛いことですよね。なのに、母は家を出た。そんな母は幸せだったのかって。あたしを産んで幸せだったのかって。今は幸せになっているのかって」
幸せだ。あなたを産んで幸せだった。辛い記憶の中で、あなたを産んだ事だけが立山の夕闇のように光り輝いている。
幸せになっている。今こうして幸せに身を寄せ、鰤大根を作っている。
千鶴は、醤油の香ばしい匂いに鼻の奥を詰らせた。
「あたし、母が出て行った夜の記憶がぼんやりとあるんです。布団に入って、母のザラザラの手が、あたしの手を撫でてくれた記憶。あのとき、母は泣いていたような気がするんです。きっと母も辛かったんだと思います」
そんなことはない。辛かったのは、あなたのほうなのに。
「だから、結婚する前に、母に会って確かめたかったんです。母は、幸せなのかと。あたしは、幸せになっていいのかと……。でも、結局見つかりませんでした」
いいのだ。あなたは幸せになっていいのだ。いや、幸せになるべきなのだ。
千鶴はそう叫びたかった。
「お母さんは……、きっと幸せに暮らしているわよ。だって、こんなに素敵なお嬢さんを産んだんだもの。だからあなたも、幸せになるべきよ」
そう言うのが精一杯だった。
煮上がった鰤大根に、味噌と砂糖で味付けした。器に盛って、柚子の細切りを添えた。
一杯の器を二人で突いた。
立ち昇る湯気。
それが二人の、今の時間の厚さだった。
舌の上でほろりと蕩けた鰤の肉は、幾分塩辛かった。