【小説】『鰤大根』 8 了
赤茶けたバス停まで見送りに出た。
「今日は夕暮れの立山を見られたかもしれませんね。残念」
「また……、また見にいらっしゃい、成美ちゃん。今度は旦那さんと、そして、赤ちゃんと一緒に」
下の名前で呼んだ。あの頃のように。だが、二人ともそれに気が付いていなかった。それは実に自然だった。
成美は、目尻に皺を寄せた。
バスは、幸せになるべき女性を乗せて、海岸線を走り去っていった。
その日、夕闇に赤く染まる海岸越しに、薄紅に上気した立山を望んだ。
ひっそりと静まり返った「立山の間」には、娘の香りがかすかに残っていた。千鶴は、冷たい窓に額を押し当て、しなやかで果敢なげな山肌を見詰めた。
窓ガラスの女は、僅かばかり目尻に皺を寄せた。
雄一の酒の肴に、成美と作った鰤大根を出した。美味いとは言わなかったが、男の箸は進んでいた。
成美と一緒に作った鰤大根だと話した。もちろん実の娘ということを隠して。
二人の後ろ姿を見た、と雄一は言った。
「親子かと思ったった」
ポツリと呟き、空になった器を突き出した。
器を受け取り、賄部屋へ駆けて込んだ。
鍋を覗き込むと、夕闇に染まった海のような煮汁の中に、海老茶色の鰤と大根の山が寄り添って浮かんでいた。
小さな、本当に些細な幸せ。
鍋の中に、一つ、また一つ、波紋が広がった。
(了)
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