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【歴史・時代小説】『本能寺燃ゆ』第二章「性愛の山」 21

 最澄が遷化後、弟子たちによって比叡山の伽藍は整えられ、また高名な僧侶を幾多も輩出した。

 平安の末から武士の時代である鎌倉の世にかけて、武士や庶民ならず、公家たちにも広がっていった宗派の開祖は、殆どが比叡山で学んでいる。

『南無阿弥陀仏』と唱えるだけで極楽に往けると説き、末法思想と相まって庶民や公家に広まった浄土宗の法然(ほうねん)しかり、その法然の弟子であり、現在一向宗として朝倉氏や織田氏などと対抗している浄土真宗開祖の親鸞(しんらん)、精神修養に重きをおき、武士に人気のある禅宗一派の臨済宗の栄西(えいさい)、曹洞宗の道元(どうげん)、念仏や禅宗を否定し、『南無妙法蓮華経』のみが衆生を救うと主張した日蓮宗の日蓮(にちれん)しかりである。

 また、比叡山に荘園などを寄進する者も増え、経済基盤も拡大し、平安の末期には、比叡山は、公家や武家と並ぶ、三大勢力のひとつにまでなった。

 特に、朝廷や武家政権を悩ませたのが、僧兵である。

 ある程度の権威と財力のある寺ならば、僧兵を持っていたのだが、特に比叡山の僧兵は厄介だ。

 権勢を欲しいままにした、かの白河院にして、『天下三不如意』と言わしめた、「賀茂川の水、双六の賽、山法師、これぞわが心に叶わぬもの」の『山法師』が、比叡山の僧兵である。

 一方で、比叡山山麓には門前町が開かれ、京をも凌ぐ賑わいを見せた。

 そうなると、僧侶の中にも御山から下りて、この門前町に住む者も多く、妻帯したり、商売をするものまで出てきて、比叡山の勢力は山だけでなく、その周辺にまで及ぶようになった。

 何せ、延暦寺の最高責任者である天台座主が、修行や行事以外では山に登ることなく、京やその周辺に居住していたのだから、末端の僧侶においては何をか言わんである。

 義昭が将軍になった頃には山の力は幾分衰退してはいたが、それでも帝や将軍だけでなく、公家や武家、商人や職人、百姓、最下層の人々にいたるまで、いまだに影響力はあった。

 権太が見たのは、そんな時代の比叡山延暦寺で、その山麓に広がっていた門前町の坂本周辺であった。

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