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【小説】『鰤大根』 4
夕食は鰤の刺し身に、鰤大根だった。
折角実の娘が来たのだから、もっと美味しいものを出したほうが良かったのかしらと、寄せる波に耳を傾けながら仄暗い天井を眺めた。
「だけど、向こうは気が付いてないようだし、変に気を回しても……」
眠れぬ夜に寝返りを打つ。雄一の無骨な寝顔が目に入った。
雄一と出会って幸せだった。もちろん辛いこともあったが、今は何とか食べていっている。
最初の夫との生活に比べれば、雲泥の差だ。
あのころは毎日が地獄だった。
成美の父である大原大輝とは、高校の同級生だった。兎角、若い女性というのは強く、ちょっとばかり悪い男性に憧れるものである。千鶴も、優柔不断な自分をぐいぐいと引っ張ってくれる、少しばかり強情な大輝のことが好きだった。
それが女性への愛ではなく、単なる男の我儘で、女に対する支配であったことに気が付くのに半年と必要なかった。
気が付いたときには遅かった。お腹に成美がいた。高校を中退し、大輝と結婚したが、男に生活能力はなかった。
子どもが生まれても、高校を卒業しても大輝は働くそぶりを見せなった。そのくせ、全ての鬱憤をぶつけるように千鶴に暴力を働いた。
成美のことを思って必死になって働くのだが、お金が入った矢先、大輝がふらふらと家に帰ってきて、全ての希望を持って出て行った。
1年、2年と耐え忍んで過ごしたが、もう限界だと思った。このままでは殺されると思った。
成美を連れて行こうとしたが、大輝の両親は離婚を認めても、孫娘を渡すのを嫌がった。娘を一人で育てる自信もなかった。
泣く泣く一人で家を出た。
あとは、三流小説に出てくるような破滅の人生である。
様々な町を渡り歩き、様々な男と人生を歩んだ。たった一夜の付き合いの男もいたし、生涯を共にすると思った男もいた。
だが、幸せは掴めなかった。いや、幸せになってはいけないと思っていた。娘を捨てた自分が幸せになる資格などないと。
幸せを捨てた女の足は、北へ北へと向った。北の町は、寂しい人を引き寄せる何かがあるのかもしれない。北へ北へと上がるほどに冷たさが増し、寒さが身に応えた。それに反して、人の温かさが増し、人情が身に染みた。
ボロボロになった体を引き摺ってこの民宿に辿り着いたのが、五年前の春だった。
「立山の間」に泊まった。窓から夕暮れの立山連峰を見た。美しかった。美しくて、悲しくて、何だかほっとして、目の前が真っ暗になるほど気が抜けた。
気が付いたら布団に寝かされて、雄一の看病を受けていた。
雄一は、1ケ月近くも縁も所縁もない女の看病をしてくれた。嬉しかった。男がこんなに優しい生き物なのかと、そのとき初めて知った。
民宿の食卓に真鰺が並ぶころには、体調も良くなった。
千鶴は、行くところもないので、看病のお礼にここで働かせて欲しいと頼んだ。
雄一は、黙って頷いた。
千鶴と名乗った。35年近く親しんできた千波という名を、過去の記憶とともに日本海の荒海に捨てた。
男は無口だった。千鶴の過去を聞こうともしなかった。夜の晩酌だけが楽しみのような人だった。
酔うと大抵は山の話をする人だった。
「立山は富山の誇りっちゃ」
と頬を上気して、美味そうに酒を飲む人だった。客室の名前が「立山の間」「剱の間」「薬師の間」と付いているのは、男の趣味でもあった。
雄一に体を許したのはいつだったろうか。はっきりと覚えていないが、出会って1年と経っていなかったころのはずだ。
日付は思い出せないが、その夜の男の体温、体臭、仕草、息遣い、全てが記憶にこびり付いている。
男の熱い愛撫を受けながら、甲板に吊り上げられた魚のように、体をくねらせて喜び悶えたことも。
男の胸に顔を伏せながら、どくどくとゆっくり流れる時の音に、ああ、これが幸せなんだと感じたことも。
働いた。男のために働いた。やっと手に入れた幸せを守るために、身を粉にして働いた。
子どもはいない。だが、生きていくのに不自由のない毎日である。
普通であることの些細な幸せ。
それがどれほど大事か、十分知った。