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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 前編 3

「ところで、鏡様は歌を集めていらっしゃるとか?」

「ええ、暇つぶしにね。もう大分溜まったわね」

「本当ですか? 今度、是非その歌を拝見させてくださいよ」

 安麻呂の目は輝いていた。

「ええ、良くてよ。歌、お好きなの?」

「好きも何も、将来は歌人になろうかと思っているのですよ」

「まあ、歌人に? でも、お家は如何なさるの? 先祖代々続く武人の家柄でしょう?」

 額田姫王は、目を輝かせている安麻呂の顔を覗き込んだ。

 大友家は武人の家柄である。

 本人は歌人にと望んでも、周囲は許さないのではないのか?

 額田姫王の心配も最もであった。

「いえ、家は兄の御行(みゆき)が継ぎますし、それに、私は武芸の方はちょっと……、それよりも、一生、歌を詠って生きていきたいのですよ。そうだ、私の歌を聴いてくださいよ」

 鏡姫王と額田姫王は、互いに顔を見合わせた。

「ほら、鏡様、筆と木簡の用意を。きちんと書き取ってくださいよ。良いですか……」

 安麻呂は咽喉の調子を整えると、背筋をぴんと伸ばす。

 鏡姫王は、慌てて筆と木簡を手元に引き寄せる。

 彼は、鏡姫王の準備が整うと、目を瞑って詠い始めた。

 なるほど、いい声だ。


  玉葛 実ならぬ樹には ちはやぶる

     神そ着くとふ ならぬ樹ごとに

  (玉葛のように実のならない樹には、

  恐ろしい神が憑くといいますよ、実のならない樹ごとに)

  (『萬葉集』巻第二)


 詠い切った安麻呂は、如何だと言わんばかりの顔だ。

「あの……、これはもしかして、どなたかに贈る歌ですか?」

 額田姫王は、複雑な顔をして訊いた。

「はい、一緒になる前に、妻に贈りましたが……」

「それで、郎女様の返歌は?」

「いや、それが……」

 安麻呂は困り顔である。

 逆にそれが、額田姫王の好奇心を刺激し、面白がって早く詠えと促した。

 安麻呂も覚悟を決めたようで、先程と同様に良い声で詠い出した。


  玉葛 花のみ咲きて 成らざるば

     誰が恋ひにあらめ 吾が恋ひ思ふを

  (玉葛のように花だけ咲いて、実がならない、

   そんな誠実ではないのは、どちら様の恋かしら、

   私は恋い慕っておりますのに)(『萬葉集』巻第二)


 鏡姫王も、額田姫王も笑いを堪えるのに必死だ。

 安麻呂はそれを見て、どうも決まりが悪かった。

「そうでしょうね。私でも、郎女様のような歌を返しますわ」

 額田姫王の美しい唇から笑いが漏れる。

「そうですか? なぜかな? 自分では良い歌だと思ったのですけど」

「実がない、誠実ではないと言われれば、誰だって怒りますよ」

「いや、恋の駆け引きと思ったのですが……」

「安麻呂殿に恋の駆け引きは似合いませんわ。実直な方ですから。歌というのは、耳に心地よい言葉や機知に飛んだ言葉を並べれば良いというものではありません。場の雰囲気と詠い手の人柄、全てを含めて歌というのです。他の方が詠えば恋の駆け引きに思えますが、安麻呂殿が詠うと、本当に責められているようで、女としては不安になりますわ」

「はあ……、そうですか……」

 安麻呂は、穴があったら入りたい気分だった。

「おっと、この後、用事があるのを忘れていました。では、鎌子兄さんに挨拶でもして、お暇しますので」

 明らかに、その場にいづらいための逃げ口上である。

 そんな安麻呂の様子を見て、鏡姫王と額田姫王はいっそう可笑しかった。

「あっ、鎌子様なら、泊りがけで仕事なの。例の処理で色々と忙しくて」

 鏡姫王の言葉に、安麻呂は「ああ、そうですか」と返すしかなく、そのまま頭を掻きながら急いで部屋を出て行った。

 そして、美しい二人の姉妹は、彼のその様子になおいっそう可笑しくなるのであった。

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