【歴史・時代小説】『本能寺燃ゆ』第二章「性愛の山」 20
山とは、比叡山延暦寺のことである……………と、あとで八郎に教えてもらった。
当代、花といえば桜であり、山といえば比叡山延暦寺をさした。
淡海(琵琶湖)の西岸、京からは北東 ―― 丑寅の方向 ―― いわゆる鬼門に鎮座し、鎮護国家の道場たる、天台宗の総本山であり、開祖は伝教大師(でんきょうたいし)こと、最澄(さいちょう)である。
最澄は、幼名を三津首広野(みつのおびとひろの)といい、近江国滋賀郡(現滋賀県大津市坂本)の豪族の息子で、宝亀十一(七八〇)年に得度して最澄と名乗り、当時本朝仏教の中心地であった奈良の東大寺で受戒したものの、何事か心にきするものがあったのであろう、そのまま生まれ故郷に近い山に登って修行に励み、三年後その場所に一乗止観院を創建した。
これが、比叡山延暦寺の始まりであり、延暦七(七八八)年のことである。
唐から天台宗を持って帰ってきたあとに比叡山を開山したと思われがちだが、比叡山に登ったのはその前で、還学生(留学生)として唐へ渡り、天台宗を持ち帰ったのは一年後で、朝廷から戒壇の設立を許されたのは、最澄の入滅後の七日目、弘仁十三(八二二)年のことである。
戒壇 ―― 大乗戒壇とは、正式な僧侶となる儀式のことである。
当時、表向き僧侶は朝廷が認めなければなれなかった。
そして、この承認をする儀式が戒壇であり、これを執り行えるのが本朝では大和東大寺と筑紫観世音寺、下野薬師寺のみであった。
最澄も正式に僧侶になるべく東大寺で戒壇を受けており、当然自らの弟子たちでさえも東大寺で受戒しなければならなかった。
唐より持ち帰った、いわば最先端の学問である天台宗と、どちらかというと旧態依然とした大和仏教では、思想や修行体系が違うため、最澄にしてみれば、独自の戒壇で弟子たちを育成し、天台宗を広めたいという思惑があった。
だが、仏教の主導権を奪われたくない南都(大和仏教)がこれに激しく反対し、結局最澄が存命の間に、天皇から戒壇寺としての勅許は下りなかったのであった。
同じころ、本朝にもう一つの密教寺が誕生している。
天台宗と並ぶ密教の総本山である真言宗高野山金剛峰寺は、弘法大師(こうぼうたいし)こと空海(くうかい)が開祖で、最澄とともに入唐し、真言宗を持ち帰ったのちの弘仁七(八一六)年に、嵯峨(さが)天皇から高野山を賜っている。
寺を建立するために場所を示せと三鈷を投げて、天高く飛び去ったそれを探し求めていると、白と黒の二匹の犬を連れた異様な姿をした猟師に会って………………などという逸話があるようだが、空海も最澄に同じで、以前高野山で修行をしていたようで、それで帝に願い出て、許可を貰ったようだ。
ただ空海は戒壇に興味はなかったのか、はたまた密教と南都仏教は異質のものとの考えなのか、それとも密教僧になるのに朝廷の許可はいらないという考えか、戒壇を求めてはいない。
その一方で、京の東寺は賜っており、そのため最澄率いる天台宗を台密、空海率いる真言宗を東密と呼んで、本朝における密教の双璧、そして後代の帝や戦国武将でさえ恐れる巨大寺社勢力へと拡大していくのである。
しかし面白いことに、空海入滅後、金剛峰寺と東寺で貸し出した経典の返済を巡ってひと悶着あり、東寺長者の観賢(かんげん)がこの争いを解決したので、それ以降高野山は東寺の末寺扱いになってしまった。
ちなみに最澄と空海、仲が悪かったようだ。
最澄のほうが年配で、得度するのも早かったので、いわば先輩である。
還学生として唐に渡る際には、最澄はすでに仏教界にも名の知れた人物となっていたが、空海は全くの無名であった。
最澄は一年で帰朝したが、空海は二年近くに渡り、じっくりと密教を修得してきた ―― 当初、空海の留学は二十年の予定であったが、全ての修養をわずか二年で終えてしまったのも、驚愕である。
一年余りでは密教の真髄を修得できなかったと考えていた最澄は、空海に教えを乞うため、灌頂を受けている。
灌頂とは、密教における戒壇と同じで、これを受けて正式な密教僧となる。
つまり、最澄が空海の弟子になったのである。
この時点まで、ふたりの仲は良かったようだ。
が、あるときから、空海が最澄への経典の貸し出しを渋りはじめた。
仕方がないので、最澄は空海のもとに愛弟子を入信させてまでして、密教を学ぼうとしたが、これも失敗し、この後、二人の関係が戻ることはなかったという。
当時、空海も高野山の伽藍整備や、朝廷からの様々な勅令を受けて事業を進めており、最澄ばかりに係わってはいられなかったのだろう。
まあ、朝廷との関係が良好な最澄への嫉妬や意趣返しと見るのは、下種の勘繰りかもしれないが………………
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