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【小説】『おかえり』 3
今年美大に入学したばかりだとか言っていた。名前は知らない。住所も聞いていない。そもそも美大生という話も嘘かもしれない。ただ、黒真珠のようにつやつやと輝く瞳に、苦労知らずの滑らかな唇、まだ幼さを残す頬肉をきゅっと引き上げて笑う顔を見ていると、とても嘘をついているようには思えない。
つい1時間前、ピックアップしたばかりだ。黄色い大きなDバッグを背負って、苦行しながら聖地へと赴く信者のように、国道沿いをとぼとぼと歩いていた。乗せるつもりはなかった。彼も、そんな意思表示はしていなかった。意識せず通り過ぎ、意識せずブレーキを踏んで、意識せず彼を乗せた。
なぜ彼を乗せる気になったのか分からない。道連れにするつもりだったのか。
彼もまた、なぜ俺の車に乗る気になったのか分からないと言った。夏休みを利用して、実家から父方の祖母の家まで歩いて旅をしているらしい。彼は車に乗り込むなり、「ちょうど疲れてたんですよ。ヒッチハイクでもしようかなと思ってたところに、あなたの車が止まったものだから、助かりました」と、人好きする笑顔を向けた。運命ですかねと彼ははしゃいでいたが、運命の出会いなら若い女の子がいい。
彼は、黄色のDバッグをポンポン叩きながら言った。
「盗みまでして欲しんですかね、お金」
聖者然とした態度に、俺は少々イラっとした。二十歳(はたち)前の小倅が、何を偉そうに。
「欲しいやつは欲しいだろう」
それは、俺自身への言い訳だろうか。
彼は、俺を同属の人間だと思っていたのか、それとも運命の出会いに親しみを感じていたのか、俺の少し突き放したような言い方に驚き、穢れのない双眸で見つめてきた。瞬く睫毛が、まるで天使の羽のようだ。そんな目で見るな。心がひどく痛む。
「そんなに欲しいですか。所詮、お金ですよ。堕落した資本主義の象徴ですよ」
堕落した資本主義には面食らった。
「何が堕落か俺には分からんが、金があれば苦労はしないだろう。何でも買えるし」
「お金で買えない物もあります」
まさか、『愛』とか言い出すんじゃないだろうな。新聞やテレビが喜びそうなネタを言わないでくれよ。
半ば期待して待つと、青年はやはりそう言った。
思わず噴出しそうになった。〝愛〟で飯が食えたら苦労はしない。親の金で大学に行ってるだけはある。金で困ったことがないのだろう。小さいころから何でも買ってもらえて、苦労せずに育った証拠だ。大人びた言葉を使うが、考え方はまるで子どものままだ。
彼だけが悪いんじゃない。世の中全体がそんな感じだ。理路整然とした言葉を並べたてて批判するヤツに限って、言ってることは抽象的で、曖昧だ。具体的なことも、行動も伴っていない。
金なんて有り余っていた時代が崩壊して、みんな変わってしまった。お金、お金と騒いでいたマスコミ連中が、突如〝愛〟の伝道に目覚めた。俺の周りのヤツらも、急に家族を大事にしはじめた。一年前は、金に物をいわせて毎晩飲み歩いてたヤツらが。まあ、俺の生活も随分変わったが。
「あと、家族とか」
若者は、〝家族〟という言葉の響きに、憧れというか、血の宿命のような神聖な絆を感じているようだが、俺にとって家族とは、面倒な代物で、むしろ虫唾が走るほど嫌悪を抱き、ときどき遠くにあって懐かしめば十分だ。
「ご家族は、いらっしゃらないんですか」
「田舎にいるよ。親父とお袋、あと弟と妹が」
「奥さんやお子さんは」
ようやく家族という血の呪縛から逃れた者が、なぜ家族を作る必要があるのか。考えただけでもゾッとする。その俺が、故里に向かって車を走らせているのだから、滑稽の極みだ。
これ以上家族の話はよそう。頭が痛くなってきた。どうもさっきからガンガンする。