【小説】『鰤大根』 3
フロントを覗くと、細面で目元の涼しい女性が佇んでいた。肩の辺りで切り揃えた髪は、今時の女性には珍しく、漆を塗ったように光沢を帯びていた。手には、女性の旅行としては少なすぎると思われる大きさのボストンバックが一つ。
案外、旅慣れているお客かもしれない、と千鶴は安堵した。
「ようこそお越しくださいました。えっと……」
不手際だった。客の名前を知っておくのが女将の鉄則であったが、急ぎの客だったので確認するのを忘れていた。
千鶴は、フロントのカウンターに置かれていた宿泊名簿にすばやく目を走らせた。
「大原成美様ですね。お部屋はお二階になりますので。おカバン、お持ちいたします」
旅行カバンを受け取り、階段を数歩上がったところで、女性の名前に覚えがあることに気がついた。
大原成美……、まさか……?
心臓が早鐘のごとく鳴り響いた。
大原成美、まさか、そんな、だって、いや、ああ……。
言葉が文章にならず、脈絡もない単語が頭の中で音を立てて回った。
足を滑らせたのだろう。気がついたときは、成美に体を支えられていた
「大丈夫ですか?」
「は、はい、すみません。階段、滑りやすくなってますので、気をつけてください」
その受け答えが可笑しかったのか、成美は目尻に皺を寄せて頷いた。成美の笑顔に、千鶴は再び面食らいそうになってしまった。
似ている。あの子に似ている。目尻に皺を寄せて笑うところなんか、あの子にそっくりだ。
激しい動揺を抑え、客室に入った。暖房はまだ効いていなかった。
部屋に入ると、成美は薄曇の窓に駆け寄った。窓枠に手をつき、肘をピンと伸ばして外を眺めた。
「この部屋から立山連峰は見えますか? 観光案内所のおじさんが、立山連峰から昇る朝日が綺麗だからって、ここを薦められたんですけど」
「そ、そうですか。ええ、晴れていたら見えますよ」
千鶴は、なるたけ成美のほうを見ないようにしてお茶の準備をした。真正面から見ては、平常心ではいられないと思った。
「でも、朝日より、夕焼けのほうが素敵かもしれない……」
成美の言葉に、手が震えた。お茶が僅かに零れた。
「立山って、あっちのほうですよね。この角度なら、朝日より、夕焼けのほうが照り返しで綺麗に見えそうなんだけど」
「そ、そうですね」
ああ、間違いない。朝焼けに燃える立山よりも、夕焼けにくすむ立山を好む。この子は、間違いなく私の子だ。
震える手でお茶を差し出した。
成美は、出されたお茶を美味しそうに啜った。お茶を飲みながら、くくくっと低い声で笑い出した。
「ごめんなさい、観光案内所のおじさんのこと思い出しちゃって」
笑いを堪えるのに必死なのか、肩が揺れ、お茶が渦を巻いた。
「お嬢ちゃん、辛いこともあるが、楽しいことはもっとある。人生を諦めちゃいけない。朝日の立山を見たら、元気になるって。あたし、傷心旅行か何かと間違われたみたい」
成美は悪戯っぽい瞳を向けた。
耳の奥に、ドクドクと血が流れていった。あまりにも大きな音なので、成美に聞こえてしまうのではと思った。
「女将さんも、心配したでしょう。女の一人旅だから」
「い、いえ」
慌てて首を振った。
「安心してください。あたし、人を探しに来ただけですから」
「ひ、人を……」
「ええ、大原千波、旧姓は津川千波。あたしのお母さんです」
大原千波。懐かしい名前であり、忌まわしい名前でもあった。
「この町にいるって聞いて来たんですけど、でも、見つからなかった。やっぱり素人じゃ探偵の真似なんか無理ですね」
「そ、そうですね。ああ、お腹空いたでしょう。今、夕食の準備をしますから」
千鶴は逃げるようにして部屋を出た。
これ以上、言葉を交わすことができなかった。
娘が自分を訪ねて来てくれたという喜びと、娘を捨てたという後ろめたさ。なぜ娘は今頃探しに来たのかという戸惑いと、自分が実母であると明かして娘はどうするのかという不安。
自分が実の母であると名乗ったところで、それが自分にとって、今の自分の家族にとって、何より成美にとって幸せなのかという疑問。
すべてが千鶴の肩に圧し掛かり、押し潰されそうだった。
踊り場の窓から見上げた空には灰色の雲が垂れ込め、さらに重苦しいを増していた。
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