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【歴史・時代小説】『本能寺燃ゆ』第二章「性愛の山」 18

「皇子(みこ)や公方だって、これがなくちゃ、位にも就けねじゃねぇか。貧乏公方がいい例えだ」

 確かに、貧乏公方こと足利義昭は、内裏から将軍宣下のために要求された銭を用意できず、中々将軍になることができなかった。

 武家の棟梁として将軍職を継げたのはつい昨年、織田信長が朝廷に銭を積んだからである。

 それだけではないと、八郎は教えてくれた。

 先々代前の後柏原(ごかしわばら)帝が、応仁の乱後の貧窮で、帝になっても二十年近く即位の儀式ができなかったとか。

 別に、儀式などしなくてもいいようなものだが、お偉いさんには義式という形式ばったものが必要らしいと、八郎は鼻で笑った。

 権太には、何が何でも即位式をしなければならない理由が良く分からなかったが、それでも朝廷は即位の儀式をするために、足利将軍家に金を出させようと、当時十一代将軍義高(よしたか:義澄(よしずみ))の目の前に、宰相中将の官位をぶら下げた。

 武家が、内裏から位を受けるということは名誉なことであるらしく、それで他の武士とは格式が違うと誇りになるのだが、もちろん任官には銭が必要である。

 義高は、先の大乱で失墜した足利宗家の威信を回復すべく、これに飛びつき、宰相中将になりたいといいだした。

 もちろん、そこには内裏から再三要請があった、即位式の費用の一部を賄うという義高の計算と、朝廷との思惑の一致があった。

 が、これを当時、管領で事実上の実力者であった細川政元(ほそかわ・まさもと)が、『無理』とにべもなく断った。

 応仁の大乱の後である。

 貧窮していたのは幕府も同じで、帝の即位に銭を出すどころか、将軍が宰相中将に任官するための費用を出すことさえ憚られた。

 その時の政元の発言がきいている。

『宰相中将になっても詮無いことでしょう。拙者は、義高様を将軍としか思っていませんよ。どんなに昇進したって、従う者がいなければ意味がないでしょう。いまのままで十分です。それに、即位の儀式を行うのも全く意味がありません。例え即位式をしても、実力がないものは王とは思われませんよ。即位式をしなくても、拙者が帝のことを王と思っています。だから、儀式なんて一切必要ないのです』

 この言葉に、多くの武士たちも賛同したらしい。

 ちなみに、この政元、修験道に入れあげ、女を寄せ付けなかった変り者で、当時将軍家を凌ぐほどの実力者であったので、半将軍とも渾名された。

 ただ実子がいなかったため、養子たちの細川京兆家(きょうちょうけ)の跡目争いで京はさらに混乱、貧窮する原因を作ってしまう張本人なのだが………………

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