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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第三章「皇女たちの憂鬱」 前編 8

 その日を境に、高向王の通う頻度が少なくなった。

 このころは、夫が妻の屋敷に通う ―― 通婚が一般的で、宝皇女と高向王も当時の慣例に従っていたのだが、それまで毎日のように通っていた夫が、2日に一度、3日に一度………………と頻度が減って、最近は10日に一度くればいいほどになっていた。

 仕事のほうが立て込んでいるのだと、夫は言い訳した。

 宝皇女は知っている。

 朝廷の仕事は朝早く始まり、日が正中を指すころには終わるのが慣例だ。

 日が沈むまで働くのは下々の者で、逆に皇族や豪族たちがそこまで働くのは、よっぽど官職が上の者だ。

 高向王は一応皇族であるが、仕事が立て込むほど宮内では力はない。

 むしろ、閑職である。

 暇なのに通ってこないのは、妻に飽きたか、別に妻ができたか………………
夫ひとりに、妻がひとりという決まった婚姻制度はなく、夫が他の女のもとに通おうが、女もまた別の男を受け入れようが、当事者同士が納得していれば、ある程度は自由である。

 宝皇女も、皇族の娘である。

 夫が、別の女のもとに通うことを理解している。

 確かに頭では理解している。

 理解はしているが、心は苦しい ―― 胸の奥が、まるで針で突かれるようにチクチクと痛い。

 ―― だけど、そうじゃないような………………

 不思議と、女の香りはしない。

 女の感は、別だと言っている。

 仕事でもなく、女でもない………………

 ―― もしかして、あのことを気にされて………………

 宝皇女は、それとなく訊いてみた。

「あなた、もしかして、あのことを気にされているのでは? 田村様のことを?」

 男は笑顔を作る。

「いや、違いますよ、本当に仕事で忙しいのです」

 女に、嘘はつけない。

 彼女は、侍女を使ってそれとなく宮内の様子を探らせた。

 彼女たちが持ち帰った話は、驚きであった。

「現在、高向様は朝廷においでになってはおりません。ずっとお屋敷にいらっしゃるようです。どうやら、急に高向様のお役が解かれたとか」

「なぜ、そのような?」

「詳しくは分かりませんが、噂では……、これはあくまで噂ですが、田村様を大王に推す一派が圧力をかけたのではないかと」

「そこまでやりますか、叔父上は!」

 普段は温厚な彼女も、これには流石に激怒した。

 父に怒りをぶちまけた。

「そんなことまでされて、私が靡くとでもお思いですか?」

「お前が靡くか靡かないか、そのようなことはどうでもよいこと。大事なのは、誰につくかだ。高向王に、もはや大王の目はない、いや今後宮内には居場所もなかろう。地方の役として落ちていくのが目に見えている。そんな男と一緒になっても、お前は幸せになれんぞ」

 父には珍しく、険しい顔で言った。

「私の幸せは、高向様、漢と一緒に暮らすことです。邪魔をなさらないでください」

「邪魔をしているのは、お前であろう、宝! お前はこの好機を無にする気か! このわしの好機を!」

「私は、お父上の出世のために生きているのではありません。私は、私の人生を生きているのです。私の幸せは私が決めます。夫や子と一緒なら、たとえ蝦夷の地でも行きます」

「馬鹿を申すな! 大切な娘をそんなところに行かせるか! これ以上、話すことはない。お前は田村の大后になるのだ。いいか、これ以上、高向王を屋敷に入れてはならん!」

 見かねた母の吉備姫王が夫の説得に当たったのだが、あの優しかった父が、まるで物の怪に魅入られたように頑なに拒否した。

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