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【小説】『鰤大根』 1

 窓の外は、朧雲だった。

 女将の千鶴は、寂しげな冬空を見上げた。

 明日は、雨だろうか。

 運が良ければ、海越しの立山連峰が夕焼けに照らされ、淡い輝きを放つ姿を認めることができる。

 千鶴が一番好きな景色である。

 一幅の絵である。

 客の宿泊手続きや夕食の準備で館内を忙しく駆け回っている時間帯だが、二階に上がる踊り場でふと足を止め、東向きの窓を見入るのが彼女の習慣であった。

 立山連峰から昇る朝日が美しいことで有名な民宿である。それ見たさに宿泊する客も多い。

 なるほど、確かに美しい。が、千鶴は、朝日に煌めく雄々しい立山よりも、夕日に染まる嫋やかな立山を好んだ。

 雪肌に覆われた立山が、ほんのりと薄桃色に輝く情景は、男に身を寄せ、白い肌を上気させた女の艶かしさと儚さを感じさせる。

 富山湾に浮かぶ立山連峰を望むこと自体幸運だ。夕日に映える立山を遠望することは奇跡に近い。

 そんな奇跡に出会ったことに感謝し、ひとり笑みを零す。

 今夕の空では、それは望めない。

「雨かしら、もしかしたら初雪かも」

 雪が降ってもいい季節だ。暖房を少し高めに設定しておこう。

 千鶴は階段を駆け上がり、急な泊り客を迎え入れる「立山の間」に足を運んだ。

 「立山の間」は、内縁の夫である雄一が経営する民宿の中で、夕闇の立山が一番美しく見渡せる部屋である。

 もしかしたら、その部屋から美しい夕闇の立山が見られるのではと期待したが、窓から差し込む黄昏色の光はなく、部屋の中はやはり薄暗かった。

 千鶴は、明かりを点けるのも忘れて、件の窓に足を運んだ。

 薄鈍色の窓ガラスに、ほっそりとした青白い女の顔が映り込む。目の下には大きな隈が浮かんでいる。唇に指をあてがうと、窓ガラスの中の女も藤色に変色した薄い唇に指を添えた。

 千鶴は恥じた。

 女将が疲れた顔をしていては、泊り客に失礼だ。この部屋に泊まる客には、なお悪かろう。

 急な泊り客は、女の一人旅だった。

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