「オールオアナッシング」こそナッシング
仕事をしていると議論になる。
議論になるぐらい、それぞれの考えや思いがあるべきだ。
僕は、「議論することはとても大切だ」と思う人種だ。周りの人たちは議論があまり好きではない人が多いように感じる。
議論好きな僕でも議論でストレスが溜まることがある。
それは・・・
議論の相手の思考が「オールオアナッシング」
のときである。
20年以上仕事をしてわかったこと。それは・・・
仕事の成否は「さじ加減」
つまり大切なのは、やることの『程度』
たとえば、問題行動を起こした生徒に対して、「指導(この場合、厳しさ)」はもちろんではあるが、「共感(優しさ)」も必要である。
問題行動を起こすには、何かしらの理由がある。
子どもたちの問題行動は、大人が原因を作っていることも少なくない。
そう考えると、問題行動を起こした生徒を「全否定」することは避けた方がよい。「全否定」してしまうと、生徒自身の心に「先生はわかってくれない」という負の感情が生まれてしまう。
だから、厳しく指導した上で、最後に
「まあ、いろいろ大変なこともあるやろうけど、がんばれ」
と、「お前の気持ちはわかる部分もあるよ」とメッセージを送る。
さて、話を戻そう。
議論にならない人の「オールオアナッシング」。
今回の問題行動での指導の仕方でわかるよう「オールオアナッシング」ではなく、『程度』の問題なのである。
「オールオアナッシング」思考の人は、「厳しく」か「優しく」なのである。
僕からしたら、「どれくらい」厳しくして、「どれくらい」優しくするか。
こんな思考の違う人が議論すると・・・
「厳しく(厳しい割合を高める)指導しやなアカン!」
「いやいや、あの子も、いろいろあるんやでさあ」
・・・わかっとる!その上で、厳しく指導する必要があるということや。
「優しく(優しい割合を高める)指導したった方がええなあ・・・」
「そんなあまいこと言ってるから、なめられるんやで!」
・・・通じてない。さらに、なめられてるんやでな!って今回のことだけでなく、日頃のことまで出してきてるやん・・・はぁ・・・
「オールオアナッシング」という思考の人に上から言われるほど、ストレスに感じることはない。
困ったものだ。