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行間から流れ出す「SIDE‐C」:乾くるみ『イニシエーション・ラブ』――この世に一冊もないという、読まなければいけない本について 7冊目

割引あり

※注意※

今回の記事は後半部に乾くるみ『イニシエーション・ラブ』本編の重大なネタバレを含みますので、ネタバレを前提に進む後半部は有料記事としました。100円販売ですが、Xでの拡散リポスト割引で無料で読める設定にしてあります。割引利用については自己判断でお願いします。

1.ロマンスの神様

乾くるみ『イニシエーション・ラブ』(原書房、2004年刊)といえば、ミステリ小説のおすめサイトなどで紹介されることも多い、オールタイムベストのひとつです。

読んでいて気づいたのですが、この小説、個人的にちょっとした縁がありまして。

小説の主人公である鈴木が、静岡大学の学生という設定なんですね。

表紙のイメージなどから、渋谷あたりで展開する話なのかなと勝手に思っていましたが、まさか我が母校周辺の話だったとは。

調べてみると、作者の乾くるみさん自身が静岡大学のご出身だそうで。学部は違えど、僕の先輩です。本作は1980年代後半の静岡(および東京)が舞台で、おそらく乾さんが静岡大学に通っていた経験にもとづいて書かれているのでしょう。

僕の大学時代からは20年ほど前であるものの、キャンパスライフの空気感みたいなものは「そうそう」と頷ける部分も多く、なつかしかったですねえ。大谷キャンパス周辺のアパートからバスで20~30分かけて静岡駅前の繁華街まで飲み会に行く、いささか億劫な感じ、静大生以外に伝わるかなぁ。僕みたいな出不精は、油断しているとアパートでひたすら本を読む地味な生活を送る羽目に陥ります。静波海岸とか四年間で一度も行ったことねえよ……。

本作の主人公、鈴木(たっくん)も、千冊ほどの蔵書に囲まれたアパートの自室で読書に勤しむ地味な静大四年生でした。ところが、羨ましいことに、夏休みのある日、彼は友人の望月から合コンに誘われます。頭数合わせのために渋々参加したはずのその席。〈友達の友達〉にはさほど期待していなかった鈴木ですが、〈ロマンスの神様〉は思いがけずひとりの女の子を彼に出会わせます。

本作の構成は大きく、前半の「SIDE‐A」と後半の「SIDE‐B」に分かれます。順番に内容を追ってみましょう。

2.ラブストーリーは突然に:SIDE-A

合コンのスタートは六時半。店は市の中心部ということですから、やはり駅周辺でしょう。なぜか一番乗りで到着してしまった鈴木は席でほかのメンバーを出迎えることになるのですが、対面した女性陣のひとりに、彼は目をひかれます。

 四人の女性が並んでいる――その二番目の女性に、僕の目は瞬間的に吸い寄せられた。
 髪型に特徴があり、男の子みたいに思い切ったショートカットにしていた。そのせいで色白の顔が額の生え際まで見えている。その顔にも特徴があった。いつもニコニコしていたら、それが普段の表情として定着してしまいました、というような顔立ちで、世間的にはファニーフェイスという分類になるのだろうか。美人ではないが、とにかく愛嬌のある顔立ちだった。外に比べたらはるかに薄暗い店内の一角で、彼女のその顔の部分だけが、パッと輝いているようだった。
 スタイルは小柄でほっそりとしていて、女性というよりは女の子といった感じに見えた。涼しげな白のブラウスに、紺色で膝丈のスカートを穿いていて、原色や黒を基調とした他の三人のファッションと比べると、印象はいたって地味なのだが、自然体な感じがして、僕には好感が持てた。

乾くるみ『イニシエーション・ラブ』「SIDE‐A 1 揺れるまなざし」より

彼女の名は成岡繭子(マユ)。鈴木より二つ年下の二十歳で、一番町にある歯科クリニックで歯科衛生士として働いているといいます。現在カレシはいないという。

とはいえ地味な静大生の鈴木のこと。マユのことが気になりながらも、〈何から伝えればいいのか わからないまま時は流れて〉、合コンはお開きに。

ところがチャンスはおもわぬ形で転がり込みます。後日、同じメンバーで海へ遊びに行った際、なんとマユのほうから連絡先を教えられたのです。意を決してマユの自宅へ電話をかけ(80年代なのでLINEはもちろん携帯電話もありません)、二人でデートへ行くことに。

それから二人は週一回ほどのペースで食事デートをする仲となり、やがてたがいに好意を告白。出会ってひと月ほどで結ばれた彼らは、その後も順調に交際を続け、恋人どうしの一大イベントであるクリスマスイブのホテルディナーも奇跡的に予約がとれました。素敵なホテルの一室でシャンパンとマユとのキスに酔い、鈴木が幸せを噛みしめるところで、SIDE‐Aは幕を降ろします。

3.クリスマスキャロルの頃には:SIDE-B

続いてSIDE‐B。静岡県内の企業に就職した鈴木は、三ヶ月の新卒研修後、東京本社への出向を命じられます。幹部候補生としての栄転ではあるものの、気にかかるのはマユのこと。逡巡しつつも、週末はマユに会いに行くと心に決め、東京での新生活をスタートさせます。

鈴木は慣れない東京での暮らしで体調を崩したりしながらも、マユと過ごす週末を励みに仕事に精を出します。ところが八月のある日。静岡と東京という距離の壁を越え、順調に交際を続けていけるように思えた二人に、ある出来事が暗い影を落とします。マユが妊娠をしているかもしれないというのです。

鈴木自身にハッキリとした心当たりはなかったものの、子どもができたとあらば当然、結婚をしようと考えます。しかしマユのほうは婚前交渉の事実を周囲に知られることを嫌がり、首を縦には振りません。悩んだ末、二人は堕胎を選択します。この出来事がきっかけとなり、鈴木はすこしずつマユとの交際を重荷に感じるようになっていきます。

そんな折、鈴木はかねてより好意を向けられていた同僚の石丸美弥子とデートをすることになり、肉体関係を持つに至ります。週末にマユに会う日数を減らし、美弥子と二股交際を始めた鈴木でしたが、綱渡りの日々は長くはもちません。十月の末日のこと。マユの部屋で週末を過ごしていた鈴木は、マユをうっかり「美弥子」と呼んでしまいます。このひと言でマユに浮気を勘付かれた鈴木は、喧嘩別れのようなかたちでマユの部屋を飛び出します。一年半続いた交際の、あっけない破局です。

マユとの関係をいちおうは清算し、美弥子との交際を選んだ鈴木は、マユとの恋愛は大人になるための通過儀礼の恋――〈イニシエーション・ラブ〉だったのだと自分を納得させようとします。〈クリスマスキャロルが流れる〉その頃にはもう、彼とマユとの〈答えもきっと出てい〉たのでしょう。酔いのせいで誤ってかけてしまった電話での、マユのあまりにも平然とした声色に不穏なものを感じつつも、鈴木はクリスマスを美弥子の自宅で過ごします。他愛もない会話から脳裏をよぎるマユとの思い出を振り払うように、鈴木は美弥子を強く抱きしめるのでした。

4.いいわけ

……と、あらすじだけ記すと、若い男女が出会って別れるまでの、ありふれた恋愛模様を描いているだけの物語に思えます。ところが、巷間で言われているように、ラストから二行目の一文によって、この物語全体がまったく違った意味を持ってしまう仕掛けとなっているんですね。

【以下、本作のトリックに触れます。ネタバレOKな方のみ有料部分へお進みください。なおXで本記事を拡散リポストしていただくと割引無料で読めるようですので、ご希望の方はご活用ください。】

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