エターナルライフ第12話 秋 康輔
夢を見ていた。母が亡くなったことを聞いたとき、ユキの胸の中で泣きじゃくったあの夜。
何故か彼女は一糸まとわぬ姿で俺の隣におり、そのしなやかな腕で俺の頭を抱いている。頬にあたる胸の柔らかさ、その肌の瑞々しさ。そして、果実のような甘い匂い。
ねえユキ、君はどこに行っていたんだ?
目覚めはしたものの、ベッドから起きられず、ぼんやりと夢を反芻していた。
あの夜、俺は悲しみのどん底にいたのに、ユキに抱かれて激しく勃起していた。それをユキに悟られたくなくて腰を引いていた俺に、十三歳のユキはその身体を密着させたのだ。
「大丈夫?」
彼女がやって来てベッドに腰をかける。
「ああ」
俺の髪をかき上げながら彼女は言う。
「良かった」
「俺はどうしたんだろう?」
「覚えてない?」
「雨の中を歩いてきて、その途中から記憶が無い」
「私のためにジャケットを貸してくれたから。あなたはずぶ濡れになっちゃって。たぶん低体温症。だから前にあなたがしてくれたように、濡れた服を脱がせてあげたの。だけどうまく脱がせられなくて、はさみで切っちゃった。ごめんなさい」
「そんなことはいいんだけど、なんで俺は裸なんだ? 君には俺のパジャマを着せてあげたのに」
「服を着せるより、暖めてあげられると思って。私が隣に寝たの」
夢じゃなかったのか。
「大丈夫だよ。何もしなかったから。これでひとつ恩返しができた」
微笑む彼女の頬骨の上に笑窪が浮かぶ。
「起きられる? コーヒーいれようか?」
「ああ、ありがたいね」
俺が上半身をベッドから起こすと、彼女は眉を寄せて言った。
「どうしたてこんなにたくさんひどい傷を負ったの?」
「ああ、昔の怪我だ。びっくりすると思ったから今まで見せないようにしてたんだ。そのうち話すよ」
「私、あなたのこと何も知らない。私は話したよ。あなたのことも教えて」
数日後、俺たちは例の池の畔にいた。
「俺のことを話そうか」
「聞かせて」
「俺は戦争孤児なんだ。親父は南洋で戦死したようだ。遺骨も帰ってこなかった。お袋も終戦の年に空襲で焼け死んだ。俺は疎開先の親戚の家でその知らせを聞いた。その親戚の家にやはり疎開していた三歳年上のユキという娘がいた。その子がその当時の俺の唯一の友達だった」
「初恋の人?」
「そうかも知れない。お袋の遺骨はお袋の父親、つまり俺の祖父の元にあることが分かって、俺とユキは祖父の家に向かった。せめて墓に入る前に会っておきたかった。その家でお袋の遺骨に線香をあげた後、夕暮れの町を散歩に出た。そこはお袋が生まれた町で、俺が子供の頃、お袋はよく俺を連れて来てくれた。思い出に浸りながらユキと歩いていると、そこで空襲に遭ったんだ。焼夷弾の雨の中をユキと一緒に逃げ惑って川に飛び込んだ。そこでユキとはぐれてしまった。
焼き尽くされた街の中には、いたる所に焼けただれた遺体が転がっていた。川に浮かんだ遺体は静かに流れて行った。俺はそんな地獄そのものの街の中を、三日三晩何も食わずにユキを探し回った。声を限りに名前を呼び、横たわるおびただしい数の遺体をひとつずつ見て歩いた。だけど見つからなかった。祖父も祖母も行方が分からない。彼らの家も全焼していた。その焼け跡で、割れた骨壺からこぼれたお袋の骨をポケットに入るだけ詰め込んで帰ったんだ」
彼女は黙って俺の手を握った。
「それ以来、その町には行っていない。一度行って見たいと思っていたんだが、一緒に行くか?」
俺は彼女がユキの生まれ変わりだということに、ほとんど確信に近いものを感じるようになっていた。その確信を更に確かなものにしたいと思い、安易な提案をしてしまった。
しかし、言った後に後悔した。前世の死の瞬間を夢に見る彼女を、本当にその場所に連れて行っていいのか。それは彼女の精神に決定的なダメージを与えはしないか。しかし旅行気分ではしゃいでいる彼女に、今更やめようとは言えず、駅前でレンタカーを借りた。
その町に近づいた時に彼女に言った。
「もし、気分が悪くなるようなことがあったらすぐに言ってくれ」
「えっ何で?」
「もしもそうなったら」
「大丈夫、私車酔いなんかしないよ」
「いや、この先の話だ」
俺は彼女が心配でならなかった。
町は驚くほど様変わりしていた。駅前には大きなロータリーができて、拡張された道路の両側に巨大なビルが建ち並んでいる。駅近くの駐車場に車を止めて歩いた。場所を間違えたのかと思うほど、かつての面影はない。
たしか、あの川はこの辺…。
川が無くなっていた。暗渠にされ、川の上は遊歩道になっている。こんな小さな川だったのか。当時の感覚では大きな川だった。
「ここだ」
「ここがその川だったのね。ユキさんとはぐれた」
灼熱の町、逃げ惑う群衆、おびただしい数の遺体、その腐臭。気がつくと荒い息をしていた。
「ねえ、大丈夫?」
「ああ、君は平気か?」
「うん。大丈夫」
「行こう」
俺たちは次の目的地である疎開先の村に向かった。
さすがに田舎は昔とさほど変わっていない。疎開していた親戚の夫婦には子供がいなかったから、家も土地も人手に渡ったのだろう。表札が変わっていた。
俺たちは車を降りて寺の境内に入っていった。
「ああ、なんか懐かしい感じがする。既視感っていうの? 前に来たことあるような…」
手頃な石を拾って石段に通じる石畳の通路に置く。
「何をしてるの?」
「石段を上がってここを見下ろすと、何かの動物に見える」
俺たちは石段を登って下を見下ろした。
「あ、象さんだ」
「パレイドリアって言うんだ。曖昧な模様の中に何か意味のある形が浮かび上がる」
「この光景は確かに見たことがある。初めて来たはずなのに不思議」
美里は石段の上から境内の木立を見渡しながら言った。
「あの石、誰かが躓いたら危ないよね」
美里は石段を駆け下りると俺の置いた石を参道の脇に戻した。あのときのままだった。
石段を登ってくる美里を待って本堂に進んでいく。
「あっ、康輔さん私も見つけたよ。あそこの梁の木目はカタツムリに見える」
そう、あの時は俺が見つけて君に教えたんだ。
ユキが宝物を隠した樫の木を目指して本堂の脇へと進む。確かこの辺のはず。記憶に残るその場所には直径一メートルを超える切り株が残されていた。そしてその脇には俺たちの背丈を超える若木が生長していた。
「すいません」
ちょうど通りかかった老人に聞いてみる。
「どうしてこの木は切られてしまったのですか? 子供の頃、よくここで遊んでいたのですが、ずいぶん立派な木だったはずです」
「ああ、確か三年前でしたかね。落雷で裂けてしまってね。残念ながら枯死してしまいました」
「そうだったんですか」
「樹齢何百年という立派な木でしたけどね。でもほら、ご覧なさい。蘖と言うんですがね。新しい命が芽吹いて、いつの間にかこんなに大きくなりました。逞しいもんです。生命は循環してるんですね」
残念ながらユキの宝物を見つけることはできなかった。美里は何かを探すように早足に堂の奥に進んで行った。
寺の脇を通る清冽な流れのほとりで、彼女は山の端にかかる夕日を見つめて佇んでいた。
その晩は近くの温泉宿に宿を取っていた。湯に浸かり、部屋に配膳されると彼女は言った。
「ねえ、私たちどんな関係に見られてるかな?」
「どんなって?」
「父と娘? でもあんまり似てないもんね。年の離れた夫婦? 不倫関係だったりして」
彼女は無邪気にはしゃいでいた。
久しぶりに飲んだ日本酒の酔いが進むころ、彼女は言った。
「ねえ、そのあとの話を聞かせて」
「そのあとって」
「ユキさんとはぐれてしまって、そのあと。あなたが生きてきた人生」
「ああ、両親も祖父母も亡くなって、疎開先の親戚は俺が中学校を出るまで育ててくれた。そのあと俺は都会に出て、町工場に住み込みで働きながら夜間の高校に通った。工場は朝鮮戦争のおかげですこぶる景気が良かったんだけど、高校を卒業すると同時にその仕事を辞めた。自分の作る部品がアメリカ軍の軍需を支えている事実に嫌気がさしたんだ。しばらく定職も持たずにぶらぶらしていた。自分が何をしたいのか、何ができるのかさっぱりわからなかった。手持ちの資金が尽きかけてきたある日、新設されたばかりの自衛隊の隊員募集のチラシを見つけて応募したところ、あっけなく採用された。俺は健康だったし、身体を動かすこと自体が好きだったこともあって、自衛隊の厳しい訓練も、周りの連中が愚痴るほど苦にはならなかった」
「自衛隊にいたんだ。その訓練でその身体が出来たのね。マッチョな肉体が」
「そう。俺は自衛隊で俺も知らなかった才能が花開いたんだ。射撃だ。俺の放つライフルの弾は吸い込まれるように的の中央に命中した。教官からは天性のものと評価されて、1960年のローマオリンピック強化選手にも選抜された」
「凄い! 百発百中だなんて言って、大げさだと思ってたけど、オルンピック選手なんだ!」
「いや、オリンピックには出てない。その前に自衛隊を辞めたんだ」
「何で辞めたの? もったいない」
「その頃、日米安保条約をめぐって学生達が反対闘争を繰り広げていた。前に勤めていた工場にバイトに来ていた学生と友達になったんだが、そいつも学生運動の闘士だった。俺は彼らが眩しかった。俺とほとんど同じ年代の学生達は、自らの主義主張に生き、命を燃焼させていた。そして、自衛隊には彼らの鎮圧に当たれるよう待機命令が出されていたんだ」
「友達を弾圧するようなことは耐えられなかった」
「そう、それに俺は日本という国そのものに幻滅を感じていたんだ。戦争中、あれだけアメリカに憎しみを植え付け、多くの若者を死地に追いやった奴らが、節操も無くアメリカに追従している。そして多くの国民は、たった十数年前に肉親を、大事な人を殺した連中の、その大衆文化に酔っている。そんな馬鹿馬鹿しい日本を離れたくて、俺は移民としてブラジルに渡ったんだ」
「波瀾万丈の人生だったのね」
「続きは帰ったら話そう。せっかくの酒がまずくなるかも知れない」
話すべきなのか、恥辱にまみれた過去を。話せば、恐らく彼女はそれを受け止めきれないだろう。
その晩はなかなか寝付けなかった。夕食時に飲んだ日本酒の酔いも覚めてきて、頭が覚醒してしまった。俺は寝るのを諦めて一人で風呂に行き、缶ビールを二本買って部屋に戻った。
寝ている彼女を起こさないようにそっと部屋の中を移動し、窓際に置かれた椅子に座ってビールを飲んだ。
常夜灯の淡い光が彼女の美しい横顔をぼんやり照らしている。
やはり君はユキなんだね。
君は、俺の人生が残り少ないことを知って、さよならを言いに来てくれたのか?
ねえユキ、生命が生と死を繰り返す存在なら、俺にも次の生があるのか?
それとも罪深い俺には、そんなことは叶わないのか?
ユキ、君は今、美里として別の生を生きている。俺は君のことを愛してしまったけど、でも、それは心の奥にしまっておくよ。
ユキ、米軍の無差別攻撃で若い命を奪われた君が、次の生も苦難に満ちたものであったことに胸が痛んでならない。俺が君を幸せにしてあげられるのならば、どんなに素敵なことだろう。
でも、俺は君が思うような男ではないし、時間も残されていない。
この先、俺が次第に衰弱し、君の前に無様な姿をさらすことだけは避けたい。だからその前に終わりにしよう。恐らく俺の正体を明かせば、君は去って行くだろう。
君は君の世界に戻って幸せを掴むんだ。
君自身の力で未来を切り拓くんだ。