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日水鯨缶物語 Part.1

1999年作成

■2022年注記:私が物心ついた頃、生まれ在所の隣町、福岡県北九州市戸畑区に日本水産株式会社さんの捕鯨基地がありました。下関市にあったマルハ(現マルハチニロ株式会社)と相まって、関門海峡を挟む両都市は鯨肉の街だったのです。

安価な鯨肉が北九州市に住む庶民細民の貴重なタンパク源だったのですが、もうひとつの名物が”日水の鯨缶”でした。後で知ったのですが、原料の水揚げは戸畑ですが、缶詰への加工は岩手で行われていたそうです。

本編は子供の時分から食べ慣れたその鯨缶への想いを綴ったもので、【民衆の知恵】の主旨とは異なるかも知れません。

この稿では、私の父母の戦争体験、1941年以降日米戦のために戦没した捕鯨船、戦史で語られることがなぜか少ない米軍の「飢餓作戦」、敗戦直後の戸畑市民の食事情など、当時の民衆史を振り返ることが中心の内容となってます。

それらの悲劇が展開された今から80年前の庶民細民の悪戦苦闘に対して、鯨肉が果たしてくれた役割について少しでも情報を残せたら、と1999年に始めたものがこれでした。

しかし本編は、日本水産株式会社さんから貴重な資料や情報のご提供を受けながら進めたものの残念ながら途中断念。日水社内で資料探しに奔走していただいたご担当の方には本当に申し訳ないと今でも思っています。

また2009年にオンラインゲームで知り合ったアメリカ人Daveが提供してくれた船舶攻撃の記録画像や捕鯨船に関するyoutube動画なども折り込みました。日本にかつてこういう庶民生活があったのだと知っていただければ幸甚です。


・・・鯨は日本の食文化・・・
ニッスイ『鯨焼肉 ひげ鯨赤肉味付』缶詰表面コピーより

☆☆☆☆おことわり☆☆☆☆

本稿制作につきまして日本水産株式会社より鯨缶に関する貴重な資料をご提供いただきました。心より感謝申し上げます。
本稿は私個人の意見であり、日本水産株式会社の見解またはそれを代弁するものでもありません。文章責任はすべて私個人に帰するものです。(1999年9月)


■はじめに

■鯨の街・北九州市に生まれ育って。

福岡県北九州市戸畑区。かつてそこには全国を代表する捕鯨基地があった。東洋一と謳われた吊り橋「若戸大橋」の向こうに、棟屋の赤い二重丸のマークが遠くからでも目に付いた巨大な建物があり、横には遠洋航海から帰港した黒塗りの巨大なキャッチャー・ボートが接岸している・・・。

その風景は北九州市民にとって、とてもとても日常的なシーン。日本水産の捕鯨基地は港町戸畑のひとつのシンボルでもあった。

捕鯨の街は、鯨肉の街でもある。戸畑の市場には鯨肉を商う店が多く軒を連ね、ショーケースには刺身として食べる冷凍された鯨の真っ赤な土手肉、ベーコン、おばいけなどが陳列されていた。いまでは見つけることも稀になった鯨肉専門店がそこかしこに賑わいを見せていた。

ゴムの前垂れを着けたおかみさんが威勢良く客の呼び込みをし、冷凍の肉を経木に包み新聞紙にくるんで客に手渡しする、そんな風景も懐かしい。

かつて、北九州市に生まれ育った多くの人間にとって、“肉と言えば鯨肉”だった。さて“多くの”と断ったのは、八幡製鉄所を頂点とする勤労者のヒエラルキーの中で、下請けや孫受け、さらにその下層と、圧倒的に”庶民・細民”の比重が高かったからである。

当時の生活水準は、すべてにおいて現在とは比べものにならないくらい貧しかった。今から30年以上前(1999年当時)の昔、鶏肉や豚肉も、まして牛肉など気軽に手が届く値段ではなかったのである。鯨は最も安く、多くの市民にとって最も生活に身近なタンパク源だったのだ。

もちろん私も下層労働者の息子である。家が貧しかったため、牛肉を食べる機会はそうそう訪れなかった。小学生の頃、たまに牛肉を食べる機会があったとしても、「今夜はカレーだ」と母が持ってきた皿に入っていたものは切り落としの薄いスライス肉。普段食卓に肉の塊として並べられるのは圧倒的に鯨肉が多かったのである。

■最も食卓に身近な存在だった鯨肉。

私や私の同世代の北九州人に、鯨こそが自らの体を育み大きくしてくれた“母”であると言ったら、たぶん多くの人が賛同してくれるだろうと思う。まさに鯨こそが、我々のもうひとつの“育ての親”だったと。

例えば家庭の食卓を飾ってくれた冷凍刺身やベーコン、おばいけ。北九州では冷凍で鯨刺しをいただくのが流儀である。最初にひんやりとし、噛めばサクッっとした歯触り、そして口内で溶けるほどに滲み出る鯨の旨味・・・。

スライスした鯨肉を生姜醤油に漬けて焼くのも美味だった。母が作ってくれた生姜醤油の味付けは、私にとってまさに“お袋の味”である。塩味の効いたベーコンや酢味噌をかけたおばいけの脂肪の味わいも日常的な食卓の友だった。

小学校では鯨の南蛮揚げ(竜田揚げ)。そう、小学校の給食にたびたび出てきた鯨の南蛮揚げを私は何杯おかわりしただろう。給食係配膳担当だった私は、自分のアルマイトのべこべこした器に特に多く盛ってこっそりと鯨に舌鼓を打っていた。あの味も未だに忘れることはできない。

筆者が現在も保存している空き缶。賞味期限は2009年と蓋にある。
現存している缶は、日水さん以外にはこれしか無いのではないだろうか?(笑

さて、もう一つ私にとって最も忘れられない鯨製品がある。それが日本水産株式会社が生産していた通称鯨缶または“日水の鯨の缶詰”、商品名『鯨焼肉 赤肉味付』である。

この日水の缶詰ほど北九州人の暮らしに根付いていたものはない。他社の製品ももちろんあったが、日水のものしか買わなかった。安価でかつ美味い。たぶんカレー粉を使っているのであろうか、香ばしい日水独特の味付けは絶品だった。食事の時はもちろん、酒の肴など、なにかと食卓に顔を出す商品だった。

そしていま、それらのすべては想い出の中にしかない。・・・いや、なかったのだが。

■いまだからこそ、日水鯨缶へのオマージュを・・・。

本稿を制作しようと思いたったのは、再び日水の鯨缶がその姿を店頭に現してきたからである。最近の鯨類捕獲調査事業の副産物として生産と販売が行われていたのだ。

今年の春。北九州への里帰りの途中、コンビニの店頭で缶詰のゴンドラを見ていると、見慣れたデザインの缶詰があった。商業捕鯨の禁止以降、デザインをそのままに原材料がマトンに切り替わって、それからもう10数年以上の月日が流れていた。「どうせ、マトンだろうなぁ」と諦めてはいたが、よく見ると『鯨焼肉』のあの独特の書体が缶の表に踊っていた。

買った鯨缶を里の父母に見せると、目を輝かせていた。「懐かしいなぁ・・・」。そして今は関東に住む幼なじみにも送った。反応は同じだった。彼は家族にも食べさせず、缶を大事にしまっているという。

その後、近所のスーパーで大量に鯨缶を見つけた私はうれしさのあまり数十個買いだめしたのだが、単に買いだめするだけでいいのだろうかと、ふと疑問を覚えたのである。

姉妹品の「大和煮」。個人的意見として、味的には「赤身焼肉缶」に劣る。

いま、高価な珍味としての鯨肉、垂涎の的としての尾の身、そういった稀少食としてだけ鯨が語られるとしたら、庶民の暮らしと長い歴史を分かち合ってきた来た鯨との関わりが忘れ去られてしまうのではないか、欧米化が極度に進んだ現在の食生活の、たかだか30年程度ではあるが、しかし圧倒的な変化の中で、日本人の体質に合致していた鯨肉食のひとつのカタチを永遠に埋もれさせるのは“もったいない。

私は「馬鹿野郎!」と心中泣いているのだ。いろんな意味で。

そこで今回、日本水産株式会社さんのご協力を仰ぎ、『鯨焼肉 赤肉味付』缶詰の誕生とその後の歴史、そして庶民との関わりをすこしでも残せればと思った次第。所詮一庶民の力など非力ではある。がしかし、鯨がいかに庶民の食生活と密接だったかという一面が書き残せれば、と願ってやまないのである。


■第一章:日水鯨缶、誕生前夜

■戦火に潰えた捕鯨船たち

日本がまさに瀕死状態となる1年前、昭和19年(1944)2月17日。日本海軍が誇る中部太平洋の要衝トラック島は、スプールアンス大将率いる米第五艦隊の艦載機群による大規模な攻撃を受け、軍事・港湾施設に甚大な損害を被った。

トラック島は太平洋を睨む日本海軍の重要基地であり、アメリカで言えば“真珠湾”も同然。まさに戦略の要石である。その虎の子の拠点を踏みにじられ、軍の面目はまったく丸つぶれとなった。

しかし本当の悲劇は別のところに潜んでいた。なんとこの時、タンカー、貨物船、客船など34隻(204,696トン)を一挙に喪失、大日本帝国中枢はボディーブローの様な衝撃を受けた。補給線を脅かされ、かつ補給手段を失うことは、総力戦遂行を根底から覆してしまう。そのショックは、時の内閣の一部改造、陸海軍の両統帥部総長の更迭を引き起こすほどだった。

ところで、この時海の藻屑と消えたタンカーの中に、かつて鯨を追っていた元捕鯨母船があった。第三図南丸。昭和12年(1936)、共同漁業株式会社から日本水産株式会社へと社名変更した年に、第二図南丸と共に建造された捕鯨母船である。

日本最初の母船式捕鯨が始まったのは昭和9年(1934)。東洋捕鯨と共同漁業(現・日水)が日本捕鯨株式会社を設立してその第一歩が踏み出された。翌10年、日本捕鯨株式会社はノルウェーの捕鯨母船アンタークチック号を購入。図南丸と改名し、南氷洋への出漁を開始したのだった。

しかし太平洋戦争勃発後の昭和16年(1941)に遠洋での捕鯨は中止となり、捕鯨母船は徴用。タンカーに改造され南方資源の輸送に従事させられることとなった。皮肉なことに鯨を追っていた捕鯨母船たちは、こんどは自らが追われる身となる。

艦隊決戦主義に凝り固まっていた日本海軍は、自国の海上輸送路の安全確保と敵海上輸送路の破壊について認識を深くしていなかった。しかし、アメリカは潜水艦に通商破壊戦を指令し、次々に輸送船を撃沈して島国日本の弱点を突く戦略を取った。空母機動部隊での行動においても敵の輸送手段、貯蔵施設などへの攻撃を忘れない。

 昭和18年(1943)10月28日、図南丸、ベトナム沖で沈没。
 昭和19年(1944)2月17日、第三図南丸、トラック沖で沈没。(*1)
          2月22日、第二図南丸、南シナ海で沈没。

結局敗戦までに他社のものも含めて6隻の捕鯨母船がすべて沈没。捕鯨船も67隻が沈没か行方不明という運命を辿った。さらに細々と行われた沿岸捕鯨自体も、昭和19年から米潜水艦の日本近海での活動が盛んになると、出漁自体が極めて危険となった。出漁命令を巡って殺人事件が起こるほどの緊張が乗組員の中にみなぎっていたのである。

食料を運ぶにも、食料を捕るにも船がない。船があっても出漁できない。完全な孤立無援、そんな状態に日本は徐々に追い込まれていったのである。

■転落する大日本帝国、生命線の崩壊

昭和20年(1945)1月、南部仏印サイゴン(現ベトナム・ホーチミン市)の港から、南方の石油や物資を満載した船団が出港を始めた。その名は、ヒ八六船団。物資を満載したタンカー4隻、貨物船6隻から成る、大日本帝国にとっては最後と言ってもいい油輸送であり大型船団でもあった。シンガポールを出発後当地に立ち寄り、いよいよ日本内地への帰還を目指していた。

1月9日にサイゴンを出港した船団は、早くも米陸軍B-24リベレーター爆撃機に発見され触接されつづける。しかし日本軍は大型爆撃機の偵察行動を阻止しうる空軍力をすでに失っていた。さらにその頃跳梁跋扈していた敵潜水艦を避けるため、沿岸2キロくらいの位置を保って航行しつづけるという細心の注意をも払わねばならなかったのである。

(2009年にPS3のゲーム仲間だったアメリカ人Daveから寄贈してもらった「PB4Y-2 Privateer」の画像。彼の父は副操縦士だった。Patrol Bomber Squadrons 118または119の所属だったと思われるが、この部隊は東南アジアから朝鮮半島南岸までを哨戒し、船舶や基地への攻撃を行っていた。ヒ八六船団に触接していたのはPB4Y-2 Privateerだった可能性が高い。Thanks Dave.)

ついに1月12日、クイニョン湾外に出てしばらく、船団の命運は窮まった。午後2時、米海軍ハルゼー提督麾下の空母から進発したSB2Cヘルダイバー艦上爆撃機、TBMアベンジャー雷撃機総勢70機の大群が、防備無きに等しいヒ八六船団に襲いかかってきた・・・。

さらに3月、マリアナの米第21爆撃軍団は日本本土戦略爆撃の方針を大きく転換した。軍需工場などに対する昼間高高度精密爆撃から、ついに市街地への夜間低高度焼夷弾爆撃に踏み切ったのだ。つまり工業施設へのピンポイント攻撃から市民を巻き込む無差別爆撃への路線変更である。その手始めとして、同月10日東京は地獄の猛火に包まれる。

(同じくDave寄贈の画像。撮影場所など未詳。戦時標準船のタンカーか。サイト『戦没した船と海員の資料館』に船体について確認をお願いしてみたが、詳細は解らず。)

■対日”飢餓作戦”の発動

そして27日、もう一つの新たな作戦が実施に移された。ミッション・コード名「Starvation」、B-29から機雷を落下傘投下して日本を海上封鎖する“飢餓作戦”の発動である。米海軍提督ニミッツが米第21爆撃軍団に提案したこの作戦の眼目は、

 1)日本への各種原材料および食料の輸入の阻止
 2)日本軍隊への補給および移動の阻止
 3)日本内海の海運の破壊

の3点。水深が浅く潜水艦の侵入が困難な海域、つまり潜水艦での通商破壊戦が行いにくいところは機雷で封鎖する挙に出たのだ。中でも北九州5市沿岸、特に関門海峡周辺が最大のターゲットとなった。

27日の初攻撃では、第313航空団の102機が出撃、うち94機(一部資料では92機)が彦島南方から若松沖、響灘、水島水道、周防灘に1000ポンド・2000ポンドの音響機雷と磁気機雷を投下した。その後実に敗戦の日までこの作戦は執拗に継続され、日本は真綿で首を絞められる状態となる。

(同じくDaveからの寄贈画像。撮影場所は不明。船首に「69?」と番号が入っている機帆船と覚しい船体。船尾に漂流しているのは乗組員だろうか。飢餓作戦では小舟に至るまで徹底的に破壊された。画像をご覧の通り、PB4Y-2は巨大な機体で低空ぎりぎりを飛行する任務を伴い、そのミッションは危険を極めた。)

そして戦争末期には、日本本土沿岸を航行する食料運搬の小さな機帆船から小舟までを米潜水艦が“浮上砲撃”、積み荷の食料を海中投棄するなど、米軍は傍若無人に暴れ回った。抵抗力を失った日本の生命線は、完膚無きまでに破壊され切断されたのである。

昭和16年12月の500総トン以上の商船で輸送した物資量4,178,499kt、敗戦を迎えた20年8月の同輸送量318,797kt・・・実にマイナス93%もの減少。その間に日本人船員約7万が還らぬ人となった。

 玉音放送が流れる頃、深刻な食糧不足が日本国内を襲っていたのだった。

*注記:
1)第三図南丸の沈没日時は、『海上護衛戦』では2月17日~18日、『クジラへの旅』では2月20日となっている。

【参考・引用資料】
●『海上護衛戦』 大井 篤(朝日ソノラマ1992)
●『米軍資料 日本空襲の全容』 小山仁示訳(東方出版 1995)
●『米軍が記録した 日本空襲』 平塚柾緒編著(草志社1995)
●『写真/太平洋戦争 第9巻』 雑誌『丸』編集部編(光人社 1995)
●『クジラへの旅』 柴 達彦(葦書房 1989)
●『鯨物語』 日本水産株式会社編(自社パンフ 1987/9)
●『Consolidated-Vultee PB4Y-2 Privateer: The Operational History Of The U.s. Navy's World War Ii Patrol/bomber Aircraft』 Alan C Carey

(Part.2に続く)


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