【東京島酒『嶋自慢』の飲俗學<7>】 続・株式会社宮原のRootsを探れ! 『宮原組 四代目襲名』
■なんとも気になっていた、Rootsの根の深さ。
この回は本来であれば銘柄紹介の稿なのだが、どーーにも気になることがあったので突っ込むことにした。
<4>「株式会社宮原のRootsを探れ!」の回に記載した下記の箇所が喉に突き刺さった骨が如く、飯が喉を通らなかったのだあ。
宮原社長の祖父・勇氏が自身の経歴に「1924(大正13)年4月 酒類製造並に販売の家業に従事」と綴っていることで、宮原家が企業合同以前から酒類製造に携わっていたことが判るし、そうなると宮原社長が四代目、ということになる。
<4>では「新島三共合名会社」をRootsとしたが、それはそれで企業の系譜としても登記簿上においても、間違いではない。しかし、実は根の深い木、その根っこの下にまだ何かあるのではないか?
そこんところを、やっぱりキッチリと明確にしておきたいと思ったわけ。
■新島三共合名会社以前のRootsの、さらに根っことは?
1926(大正15/昭和元)年4月に宮原勇が企業合同のため家業の酒類製造を中止し、7月に新島三共合名会社が発足する以前、曾祖父・國太郎や大伯父・利雄が新島でどのような動きをしていたのか。その事績を古記録から探し出してみた。
ソースは『国立国会図書館デジタルコレクション』に依る。以下、見つかった記録を古い順に列挙する。
●官報 1902(明治35)年7月29日
宮原國太郎の名前が公的記録に登場するのは、国会図書館のarchiveで探し出した限り、1902年7月のこの官報が最も古い。これは「合資会社新島共同商会」の設立公告だが、設立目的に”酒造”の文字は無い。
●官報 1907(明治40)年7月18日
1907年7月7日七夕の日、3セブンで縁起を担いだのか、新島共同商会は株式会社に改組された。そして改組の目的に「酒造及」という文言が加わって、酒造メーカーになったことが判る。取締役筆頭が國太郎だ。
ということは、この1907年を宮原家の酒造メーカーとしての発足年とすれば、今年2024年で117年目ということになる。
この改組の翌年1908年7月に、宮原社長の祖父・勇は生まれた。
●『日本全国諸会社役員録』 1908(明治41)年
全国の企業の役員についてその詳細を記した本。「営業ノ目的酒造諸物品販売」と記されている。
●官報 1909(明治42)年7月26日
新島共同商会は、1909年三宅島に支店を開設した。諸島で手広く商売を展開していたようだ。ちなみに三宅島支店は10年後の1919(大正8)年に廃止となっている。
●『伊豆七島之真相と三宅島之実業』 1911(明治44)年
この『伊豆七島之真相と三宅島之実業』 自体は、伊豆諸島の歴史や産業など、All Aboutな百科全書的著作だ。内容的に面白い。
協賛広告が出稿されていて、國太郎が社長と明記されている。営業品目は清酒と醤油の醸造と販売だ。また(2)の画像にある本文では、著者は宮原國太郎の事業家としての手腕を讃えている。國太郎の出身は長野県とあり、宮原家はもとは信州の出であった。
さらに製造については酒造部主任の堤清助が”杜氏を督励し”ていたと書かれている。が、しかしながら、焼酎の文字は品目には見当たらない。
●『銀行会社要録』 発刊年不詳
この記事でも國太郎の肩書きが取締役社長となっている。
■大正期の宮原家、國太郎の多角経営に目を見張る。
●『信用録 再版』 1912(大正元)年
代表者に國太郎の名前がある。
●『東京近海遊覧案内』 1914(大正3)年
この協賛広告と思われる枠で、初めて「焼酎醸造販売」が営業品目として追加された。また醤油に加え味噌の製造販売も行っていた。島内のよろず醸造会社とでも言うか。
醤油や味噌については、九州ほどではないにしても関東でも自家醸造が行われていたが、企業として成り立ったのは農地が少なかった離島ゆえの事情かと思われる。
それに加え、なんと國太郎個人名義で椿油の製造販売まで手がけていたのだ。通信販売にも対応していて定価表を進呈するとの宣伝文句が併記されている。
●『東亜商工人名録』 1914(大正3)年
椿油の製造販売については『東亜商工人名録』に瞠目すべき名刺広告があった。○に吾の字のロゴ、「吾妻屋」という屋号でブランド展開していたのである。家業の称号が「吾妻屋」だったこともこれで確認できた。
さらに、同じ枠の左上に「創業明治三十五年」と記載されている。國太郎自身が家業の創業年について新島共同商会を設立した1902年と考えていたことが判った。本稿を書いている2024年時点で創業122年目。
●『銀行会社要録』 1914(大正3)年
1914年時点における國太郎社長以下の経営陣の名簿が記載されている。
●『東京府化学工業大勢』 1918(大正7)年
東京府が出した『東京府化学工業大勢』という本に、新島共同商会についての記述が残っていた。品目は「清酒、焼酎」となっている。
注目されるのは、上記青い囲みの左側。
<4>「株式会社宮原のRootsを探れ!」で新島に存在した「新島酒造組合」についての疑問を書いたが、この資料を見るとなぜ組合が出来たのかが解る。
当時の新島本村には、新島共同商会以外に個人商店6人の醸造家が居たのだ。中には新島三共合名会社の代表者となる前田音吉の名前も。狭い島内でこれだけの数があったからこそ組合設立が可能だったのだろう。「企業合同」と勇が履歴に書いていたのも合点がいく。
●『丹波杜氏名鑑』 1919(大正8)年
1910(明治43)年から1911(明治44)年まで、株式会社新島共同商会で杜氏を務めた人物が判った。兵庫県生まれの丹波杜氏、谷田米蔵である。
●『工場通覧』 1919(大正8)年11月
同じ1919年に日本工業倶楽部から出版された『工場通覧』の記述は、とても興味深い。
1917(大正6)年6月、新島共同商会は本村中河原に「焼酎工場」を創業させた、と記されている。従業員は男性10名女性4名の計14名。あの神谷本店酒造所でも14名、他の事業所と比べても遜色無い規模だ。
●官報 1919(大正8)年11月25日
これは注目すべき記録だ。「新島産業株式会社」という甘藷澱粉を使った焼酎の製造販売をする会社が設立された際の官報だが、その取締役の一員として國太郎の名前がある。
國太郎が新式焼酎、アルコールの製造にも関わっていたことは、ここに掲出ができない『醗酵協会誌』の記事でも確認している。
さらにこの会社は甘藷作付けの肥料や資金を貸し付け,肥料の販売までも行っていたわけで、驚く他無い。
●『大日本酒醤油業名家大鑑 再版』 1920(大正9)年
●『大日本酒醤油業名家大鑑 3版』 1925(大正14)年
新島本村に存在した1社+6人の醸造家については前にも触れたが、これは1920〜25年当時のリスト。メンツに大きな変化はないが、この記事には石高が記載されていたので取りあげた。
●官報 1924(大正13)年5月22日
この官報では、國太郎の長男、宮原社長にとっては大伯父にあたる利雄の名前が出てくる。監査役を重任したとある。
●官報 1925(大正14)年12月24日
1925年10月26日に國太郎が取締役重任、利雄は取締役昇格となり、11月5日に登記された。なお後述するが、この年利雄は新島特定郵便局の局長にも就任している。
●『大日本帝国商工信用録 42版』1926(昭和元)年
この記録は直接宮原家とは繋がらないが、同年企業合同で発足する「新島三共合名会社」の代表前田音松に加え、後に勇と「新島酒造合名会社」を共同経営する”森田 幸”の名前が見える。
●官報 1930(昭和5)年6月8日
新島共同商会は、株主が7人未満になったとの理由で1930年2月11日についに解散、28年の歴史に幕を閉じた。
この官報の時点では、すでに新島三共合名会社が発足して4年ほど経過している。勇が家業を休止して企業合同に参加した、その”家業”は新島共同商会とは別だったのか? 焼酎工場との関係はどうであったのか?
■明治から令和へ。創業以来120年を超えた宮原家の家業。
見つかった資料などから宮原國太郎とその息子である利雄、勇がどのように事業と関わったかを、下記の年表に時系列でまとめてみた。
國太郎、もとは巡査だったというが、相当な実業家、資本家、そしてビジネスマンであったと言う他ない。
勇が履歴に「家業」と書いていたが、確かに”家業”ではある。しかし、企業規模としては名鑑に記載されるほどの大きさを有していたこと、また多角化を追及していたことにも驚いた。予想したよりも話がデカかったのだ。
なお、株式会社化については、財閥系など大手企業とのビジネスが拡大したことで、個人商店では格好がつかないため改組したのではないか、と推測する。これまで筆者がヒアリングした福岡県の老舗醸造メーカーでも同時期に同様の話を聞くからである。
さらに”家業”としての創業年に関しては、合資会社新島共同商会の設立となった1902(明治35)年を椿油の広告に國太郎自身が明記していたため確定。今年が122年目に当たることも判った。
とはいえ、登記簿上で株式会社宮原の創業年としている1926(大正15/昭和元)年の新島三共合名会社発足と新島共同商会の繋がり、商会の解散などとの絡みが公になった資料だけではよく見えない。
年表から察するに、新島合同商会の酒造部門を休止して新島三共合名会社へと合同させ、他の部門は新島合同商会のまましばらく営業していたのではなかろうか。しかしながら、事実は時の水平線に没している。
■やっぱり四代目だった、宮原社長。
これまでの記録から見ても、國太郎が代表取締役として酒造業を多角的に経営していたことは明らかだ。また國太郎は創業年を自身で1902年としている上に、宮原家の事業家としての系譜にも断絶が無いのはご覧いただいた通り。
ゆえに、家業として見た株式会社宮原は”創業122年”、酒造家として宮原社長を”四代目”と称して決して間違いではない。いや、まさに四代目、なのである。
令和酒客伝『宮原組四代目襲名』……….御一統様、以後お見知り置きの程よろしゅお頼もうします。
これにて、またまた一件落着!
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