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【東京島酒『嶋自慢』の飲俗學<12>】 我が良き友よ 『嶋自慢』庶民生活史・麦編
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『地理的表示(GI)』に指定された新島酒蒸留所の定番『嶋自慢』の「麦」version。島人の暮らし、人生の喜怒哀楽に長年寄り添ってきた、そんな島酒である。
『嶋自慢(麦)』は全量国産大麦を使用して白麹で仕込み、常圧蒸留した原酒を長期貯蔵して熟成させている。常圧ならではの麦の香ばしさと熟成が醸す円みある甘さが特徴の、東京島酒を代表する一本。
【『嶋自慢 麦』 スペック】
●原料:麦・麦麹(国産)
●常圧蒸留
●度数・容量:レギュラー25度 720ml、1800ml
樫樽貯蔵 720ml、1800ml
●発売開始年月:????
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【東京島酒『嶋自慢』の飲俗學<11>】
我が良き友よ 『嶋自慢』庶民生活史・芋編から続く
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1965〜1980
■生活史④-離島+サーフィンブームでさらに広がる新島の認知。
「もはや戦後ではない」。
有名な1956年度(昭和31年度)の経済白書の1フレーズが喧伝されてからほぼ10年後のこと。ミサイル試射場で揺れに揺れた島に平穏が戻ってきた頃、1965年あたりから国内で「離島ブーム」が始まったと各種の研究では唱えられているそうな。
そのブーム、1953(昭和28)年に施行された「離島振興法」によって港や島内道路の整備などインフラの拡充したことがベースにあり、各島での宿泊業の充実がそれを支えたとされる。
また、離島ブームによる島側の影響としては、ほとんどの島において宿泊業などの観光による産業が主要となったことがあげられる。
新島では1960年頃までは主に農業や漁業が営まれており、来島者もほとんどが行商人であった。しかし、ミサイル発射場の設置問題で話題となり、その後離島ブームになると民宿が増加したとされている。また、神津島においても漁業中心の産業構造から宿泊業による収入が離島ブーム以後増加したとされている。(中略)
また、客層の変化による影響がある。1960年代には若者の間でキャンプが流行していたが、マナーの悪さから神奈川県の県条例が発令され、規制が行われたことにより、伊豆諸島が観光地として注目された要因だとされている。
このことから離島ブームではキャンプなどの自然を好む若者層が伊豆諸島に増加したことが示唆される。表-3は1966年の各島の旅館と民宿の値を示している。比較的簡易な宿泊施設である民宿の数は新島などが多い。新島ではサーフィンが観光において盛んであり、この時期からマリンスポーツ目的で訪れる観光客が多いことが知られている。
離島ブーム時における伊豆諸島を事例に-』高橋環太郎(長崎県立大学 )
当時の若者たちの間ですでにキャンプブームというアウトドア志向が広がっていたことも、離島志向に拍車を掛けたという。それがファミリー層だけではない、若者層の来島拡大に繋がったというのである。
離島ブーム、サーフィンブームで沸く当時の空気をまさに物語るのが、「<4>株式会社宮原のRootsを探れ!」でご紹介した宮原社長の祖父勇氏が登場する雑誌『POPEYE』の記事だ。
平和でのどかな時代に寄り添う『嶋自慢』の姿が、そこにある。
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■生活史⑤-ナンパ島ウハウハ伝説、時代を超えた”青春の詩”。
新島が”ナンパ島ウハウハ伝説”として令和の今も熱く語り継がれるのは、観光スポットと化した島にやってくる女性客、今でいえば”美尻”目当てにむくつけき野郎どもが我先にと”ひと夏の経験”を求めて大挙したことにあった。
一例として。
ブームの渦中だった1970年代半ば、美尻遙拝を胸に高校の悪ガキ仲間と竹芝桟橋から新島行きの客船に乗り込んだ、という或る業界人。往路の船中で他の悪童グループとガンを付けた付けないの悶着を引き起こし、果てはデッキで一大乱闘劇を演じたという。
眉に絆創膏を貼り貼り新島港上陸、羽伏浦で芋の子洗うが如きビキニ姿にウハウハとなった某業界人であった。がしかし、相手は年上オトナの女性たち、お子ちゃまに興味は無いわと見事ソデにされたという。
〽いかした美尻をナンパしようと
船のデッキで殴り合うこと
ああ それも青春〜
しかし新島を巡る男たちのウハウハ上陸作戦は、なにも離島ブーム渦中、昭和後期だけの話ではなかったのだ。
〽︎ハァー島のはじめは大島原よ
利島つまんで鵜渡根島
年寄りぶりして気は若郷
花の新島を手に取りて
前浜沖なる地内島
鳥が島をば横に見て
あれが式根の泊り島
親のない子は神津島
親の行方を訪ねんと
恩馳(おんばせ)さして行きたいが
銭州(ぜにず)なしでは行かれない
こんな所にゃ蘭灘波島(いなんばとう)
三本嶽を杖に突き
御蔵島をば脚絆足袋
雨露しのぐ小笠原
あれは訪ねる父島よ
これは焦がるる母島か
青ヶ島をば後に見て
八丈丹後の重ね着て
目出度く納まるヤンレー三宅島
これは、伊豆諸島や小笠原諸島の各島を北から順に歌詞に折り込んだ民謡、古くから伝わる東京島唄のひとつ「島めぐり」。宮原社長の話によれば、歌詞の中にある”花の新島”という一句、これは前浜の近くにあった遊里のことを意味しているという。
”年寄りなのに若いつもりで、新島の遊里で(一夜限りの”新妻”?→新造?)の手を取る、はよしましょと気が急いて、敷寝の泊まりに”、というのが歌詞の含意だろうか?
ウハウハへの想像は尽きないが、『新島炉ばなし 増補改訂版』(武田幸有、1974再販)を開くと、歌詞にある「〽鳥が島をば横に見て あれが式根の泊り島」の部分についてのヒントが記されていた。
式根島は1701(元禄14)年に発生した大津波で、地続きだった新島と切り離され無人島となった。しかし漁民や回船が風待ちのために停泊する場所となったことから、大きな小屋を二棟建て、鍋釜などを置いて常時宿泊が出来るように設えたという。先の一行はそれを踏まえているのだろう。
むかし帆船、いま客船。とにもかくにも黒潮の波濤を越えてウハウハと新島へ向かった男たちのレツジョーは、時代を超越して今もなお我々の感動を呼び覚ましてくれる。
ただし公認されない歴史、彼等がどんな酒を嗜んでいたか、定かではない。
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■定番として飲み継がれる『嶋自慢・麦』、その推しとは?
新島の営みとともに歩み、親しまれてきた麦焼酎『嶋自慢』。その原材料や麹、酵母、製造工程、そして風味などの推しについて、宮原社長ご自身に語っていただくこととした。
【宮原社長談】
「島に戻って最初の頃は、原料麦は押麦(※)でした。製麹ドラムは鉄製で内側にステンレスを貼った小さなもので、一回に120kgの麹と280kgの掛麦でやっていました。
押麦は吸水が早いので、ドラムを回しながら洗麦をするだけで吸水時間は取っていなかったように記憶しています。一時間くらい水切りをすると麦同士がくっついて、固く締まるので今度はまたドラムを回してほぐしていました。
その後、丸麦に変更したのですが、最初の年は吸水というものがよくわかっていなくて、アルコールの収得量が少なかったです。当時は水分計もなく、知識もなく勘でやっていました。現在は水分計も導入し、割と教科書通りに造っています。
とにかく、できるだけクセのないきれいな酒を目指して、現状ある設備でどうすれば飲みやすいものができるかという気持ちでこれまでやってきました。削ぎ落としまくってきれいなものができるようになったら、次の段階に進もうと考えていました。
『兼八』さんとか好きですけど、ああいう感じには造れないので、もう30年くらい前から『軽く香ばしい麦の香り、そしてほのかな甘さと飲みごたえ』『ゆるゆると飲み飽きない島酒』と謳っている味を守っています。
麹は秋田今野もやしを使っていましたが、製麹ドラムを更新するタイミングで河内菌に変更しました。白黒黄と、まあなんでもやります。酵母は協会酵母と鹿児島酵母です。
常圧のものはわりと多めに貯蔵してあります。香りが良くなってきたので、古酒での発売も視野に入れつつ日々作業に勤しんでいます。
飲み方はぬるいお湯割りとかぬるい水割りで食中酒にするのが好きですが、氷を入れて水や炭酸・・というのが最近の流行りでしょうか」
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時は流れ、伊豆諸島の離島ブームも1980年代半ばには沈静化、舞台は沖縄や海外へと移り変わっていった。そして1985(昭和60)年、宮原酒造合名会社は生産を麦焼酎のみへとシフトしていく。
時代の歩みは芋から麦へ。
そして今はまた、麦から「麦と芋」へ。
それぞれの年月、それぞれの日日、人々が縁を結んだ『嶋自慢』は、”我が良き友”として今も心の座右にそっと置かれているのではなかろうか。
”今も昔も この酒注げば 心地よし”
(【東京島酒『嶋自慢』の飲俗學<13>】
サマーピープルへ『嶋自慢 羽伏浦』 に続く)