■正調粕取『大亀』の故郷を訪ねる。
さて。二日市を後にしたわてらは、一路北上。筑紫野市と宇美町の間に横たわる山を越えて、●●酒販商店の若大将の店へと向かった。
なぜ若大将の元に向かったかと言えば、未だ隊長は同店への訪問経験が無く、またけんじさんは店内に入ったことが無かったから。わてはと言えば、先月、長崎県は福田酒造さんの粕取『ひらど』を特別に取り寄せてもらったお礼に伺ったのだった(同品は現在けんじさんの手元にある)。
というわけで、さらに宇美町から北に向かって着いたのが、糟屋郡粕屋町長者原。
この糟屋郡の地名は酒粕の糟、つまりこの周辺に酒粕を産する清酒蔵が多かったことが語源だといふ。現に周辺には、酒殿(さかど)、酒屋(さかや)の地名が遺っている。まさに粕取焼酎の“故郷”としては、申し分のないロケーション。
ここに、goida隊員が福岡市西区飯盛で発掘した正調粕取『大亀』の蔵元、光酒造株式会社さんがある。
光酒造さんと言えば清酒『西乃蔵』、焼酎では『博多小女郎』で有名だ。さっそく事務所で、代表取締役の光安直樹氏にお話を伺う。
■筑前vs豊後・・・同社の焼酎戦後史。
まず伺ったのは、同社の焼酎の歴史である。戦前、戦後そして現在に至る歴史については、地元の有力紙『西日本新聞』で記事になり、また同社サイトにも掲載された。けんじさんがその記事を検索で見つけだして教えてくれたが、それは粕取からもろみ取りへと移り変わる筑前焼酎史を語る上で、貴重なものだった。
■正調粕取『大亀』の生産と需要の現状とは?
次ぎに、正調粕取焼酎として現在も生産と販売が続けられている『大亀』について、お話を伺ってみた。
■紳士的な対応に、“決死隊”一同も気持ちじんわり。
というわけで、蔵内部を見学させていただいた。同社の主力商品である麦や米のもろみ取り焼酎の製造ラインは近代化されたもので、さすがに筑前を代表する規模を誇る。
敷地面積の関係上、タンクを並べるスペースを節約するため、40キロリットルは入るという縦長の巨大なタンクがドン!と屹立していた。
また同社が力を入れている長期貯蔵用の樽が蔵内部のそこかしこに積み上げられていた。
一個一個に通し番号が振られているが、現時点では500番台を越えて、さらに増加しているという。その数と規模は圧倒的である。
というわけで、代表のお時間を長々と頂戴するわけにもいかない。お暇させていただくこととした。「本当にお忙しい中、時間を割いていただいて、ありがとうございました」と礼を申し上げると、
隊長とけんじさんは、米焼酎のラインアップになる『綱巻徳利』という面白い容器の商品を購入。わては手持ちの金が無いので、また買えず(すんません)。
◇ ◇ ◇
光酒造さんを後にした車の中で、けんじさんがポツリと言った。
焼酎を間に色んな人と会っていると、嘘か本当か、色んな逸話を聞くことも多い。某県の若手蔵元の何人かは、どこそこの業者を土下座させただの、叱りとばしただの、〆てやっただの。それを“元気”と言うなら、ある意味そう言えるかもしれないが・・・、
粕取焼酎はそんなブームとは無縁だ。正調粕取焼酎というジャンルそのものが、いま消滅の瀬戸際に立っている。横柄な商売など出来ようがない。スポットライトが当たることは、これまでもこれからも無いかもしれないが、しかし。
だからこそ、わてらにとっては愛おしい存在である。
今後も粕取を続けるという勇気づけられる話を聞いた。まだまだ希望が持てる。これからもわてらの調査行脚は続く・・・。
■2023年追記:光安直樹社長は現在は会長となられ、ご息女の永末朋子さんが社長となって跡を継がれている。また同社の正調粕取焼酎『大亀』はいまだカタログに記載されている。うれしいことである。
談話の中で、福岡大分県境の山地を挟んで大分の二階堂さんとの営業合戦の話が出てくるが、記憶ではトラックに焼酎を積み山間を回って売り歩いていたとの言葉があったと記憶している。まだ流通が発達していなかった時代のことである。
(了)