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日水鯨缶物語 Part.2
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■第二章:日本の飢えが、鯨缶の“母”だった。
■玄海灘を越えた、幸運な引き揚げ船
昭和20年8月下旬、朝鮮鎮海の港から一隻の木造貨物船が出港した。船の名は「越洋丸」。目指すは福岡県戸畑市(現北九州市)の洞海湾である。その船には“内地”に引き揚げる様々な家族100名ちかくが乗り組んでいた。
8月15日の「終戦の詔勅」以後、海外植民地の日本人たちは大混乱に陥った。故国へと向かう逃避行の中で、多くの家族が離ればなれになり、また命を落とした(*1)。その混乱のまっただ中、17歳だった私の父は満蒙開拓義勇軍の一員として屯田していた満州の奥地で、進撃するソ連軍に追われていた。そして小学校4年生だった母は「越洋丸」に乗った引揚者の群れの中にあった。
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母たち一家は幸運である。「越洋丸」は鎮海~福岡県旧戸畑市間を結ぶ軍の食料・医薬品等の輸送船だが、船長のもとで同船の機関長を務めていたのが母の父親、つまり私の祖父だったのだ。また朝鮮半島南部沿岸の鎮海に住んでいたことも幸いした。交通手段を持っていたことと地の利のお陰で、祖父母、母、伯母は悲劇に巻き込まれることなく無事帰国することができたからだ。
ちょうど九州に台風が近づく中、対馬海峡は大しけとなった。木造貨物船としては大きかったという「越洋丸」だったが、自然に敵うはずもない。船が荒波に揉まれる中、母は生まれてはじめての船酔いに苦しんだという。船は一日かけてやっと玄界灘にたどり着いた。
海面から突き出た、林立するマスト・・・。それが洞海湾に入港しようとする「越洋丸」から最初に見えた風景である。B-29から投下された機雷のために沈没した船のマストが海原のあちらこちらから唐突に飛び出していた。米軍の海上封鎖作戦は成功し、洞海湾や関門海峡は船の墓場と化していたのである。
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「越洋丸」は沈船のマストの間を通り過ぎながら、戸畑市渡場(わたしば)に無事接岸した。祖父母一家は住まいとして渡場に住んでいた縁者から家を借り受け、戦後生活のスタートを切った。母たちは引揚者としては最も早期に、そして最も安全に帰国でき、しかもすぐに居を定めることができた、極めて運のいい人々だったと言えるだろう。
しかし、食糧難はすべての庶民たちに“平等”に押し寄せてきた。生きるための次なる戦いが始まったのである。
■食料探しに悪戦苦闘する北九州の庶民たち
話は朝鮮からの出発時に戻る。敗戦の報が届いた後、混乱の中で祖父は一時行方知れずとなった。乗り組んでいた輸送船が撃沈されたとの噂も流れる中、祖母は子供たちや縁者を連れて軍駆逐艦での引き揚げを決意した。そのため家財道具一切を近所付き合いをしていた朝鮮の友人たちに買ってもらい手持ちの金としたのである。
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撮影場所など詳細は不明。)
しかし祖父は引き揚げの前日に突然戻ってきた。一切合切を売り払ったあとだった。着の身着のままとなったが、祖父の乗り組む船で帰れることになった。
出港の時、鎮海の波止場では懇意にしていた朝鮮人たちが別れを惜しんで日の丸の旗を振ってくれ、お互い涙したという。「アメリカに負けない“新型爆弾”を作ってやっつけて、また戻ってきて」という言葉もかけられたということだ。
確かに日本敗戦によってその支配から脱した朝鮮民族の内心は違っていただろう。当然である。見送ってくれた人々の心は、圧制から解放された喜びに沸き返っていたはずである。
しかし、逃げ帰る母の家族の家財道具を買ったり港で別れを惜しんでくれたことが、たとえ“社交辞令”であったとしても、そこに国家間の関係とは違う、庶民同士の心の交流があったと私は信じたい。
すこし横道にそれたが、着の身着のままで戸畑に落ち着いた祖父母一家に、またしても幸運がついてまわる。乗っていた輸送船「越洋丸」は軍の物資をそのまま満載していたのだ。極めて貴重だった医薬品、食料、エチルアルコールなどを積んでいたため、その物資で食いつなぐことが出来た。
とはいえ、砂糖には蟻が群がる。縁者や友人などが祖父母との知己を利用してその物資に群がり、飲むわ食うわの連夜となった。瞬く間に物資は底を突いた。砂糖が無くなれば蟻は離れていく。物資が無くなるのを見届けると潮が引くように人々の多くは去っていった。
それだけモノが欠乏していたのであり、生きる残るためには“礼節”など犬に食わせてしまえ!という時代だったのである。
主食の米は、外米輸入が途絶した上に昭和20年は大凶作という追い打ちもあって、農民の供出は12月末の時点で目標のわずか23%の数量しか確保できなかった。戸畑の周辺では多くの人々が、洞海湾に沈んだ輸送船から海水に浸かって腐敗した米を引き揚げ、乾燥させて食べていた。
さらに肉を手に入れることもままならなかった。戸畑の某女金貸しが仕入れてさばいた馬肉が珍しく、飢えた人々の舌に乗った。しかし元が病死馬だったために、食べた人々の全身に吹き出物ができて大騒ぎになるという、悲喜劇も演じられた。
もちろん“買い出し”と“タケノコ生活”は母の一家も経験している。僅かながら持ち帰った着物を手に、鹿児島本線から筑豊本線へと列車を乗り継ぎ、直方や飯塚など筑豊の農家を回る。着物を米やイモなどと交換してもらうためである。最初は応じていた農家だったが、着物が手元に余ると交換してはくれなくなった。
また戸畑市内では街のパン屋が、小麦粉を持参した客に交換に焼いたパンを渡すということを行っていた。パンに関しての母の一番の想い出は、戸畑にいまもある明治製菓戸畑工場(2003年閉鎖)がやっていたコッペパンの配給だという。政府発行の切符を持っていくとコッペパンをくれたそうである。その時、生まれてはじめて“中が真っ白いパン”を見たそうだ。
■日本の飢えが、鯨缶の“母”だった
さて当時の国内は、敗戦から10月までの失業者数男女合計448万人、その上に内地復員者(軍人・軍属)761万人、在外引揚者150万人がなだれ込んで、総計1359万人が住居と職場を探し回っている状況だった。
食うに食無く、住むに家無く、働くに職無い中、都市には浮浪者が流れ込み、多くの餓死者を出した。飢えは人間だけではなかった。東京の世田谷では食堂のウェイトレスが野良犬の群れに食い殺されるという悲劇も生まれている。(『東京闇市興亡史』より)
このような戦後のモノ不足の時代、深刻な食糧難の打開策として、南氷洋捕鯨を軸とした水産加工業の復興が推し進められていく。捕鯨と、恵みである鯨肉の加工、その戦後の新たなスタートは鯨缶の製造からはじまり、飢えきった日本人の胃袋を満たしていくことになるのである。
*注記1)一般に“日本人の受難”として語られる満州での逃避行と引き揚げ。戦中戦後のことを全くと言っていいほど語りたがらなかった父だが、逃避行時の体験・目撃談を一度だけ語ってくれたことがある。
「食い物がないんで、ソ連軍の兵舎に盗みに行く。分厚い鉄板を両手で持って小走りに逃げる。機関銃の弾がガンガンと鉄板に当たり跳ね返って土煙をあげよった・・・」 「女たちが泣く泣く子供と離ればなれになった、というのは嘘やな。女は自分が助かるために足手まといになる子供をぽんぽん捨てて置き去りにして行きよった。子ども達は取り残されて泣きよったよ。女が“子供が一番大切”ちいうのは絶対に違うね、人間は自分が一番大切なんよ」 「飢えと病で倒れた。病院で隣に寝かされていた義勇軍の友人達が次々と冷たくなっていった。“明日は自分の番か”と毎日思うとった・・・」
【参考・引用資料】
●『毎日ムック 戦後50年』 毎日新聞社(毎日新聞社 1995)
●『東京闇市興亡史』 東京焼け跡ヤミ市を記録する会 猪野健治編(草風社 1978)
●『鯨物語』 日本水産株式会社編(自社パンフ 1987/9)
●『日本水産の70年』 日本水産株式会社編(1981/5)『
●『Consolidated-Vultee PB4Y-2 Privateer: The Operational History Of The U.s. Navy's World War Ii Patrol/bomber Aircraft』 Alan C Carey
■お詫び
これまで数回に渡ってご覧いただきました『日水鯨缶物語』ですが、誠に申し訳ありませんが、この度中絶させていただきます。
日本水産株式会社さんに基本資料のご提供をお願いしましたところ、倉庫の奥まで探していただきました。しかし、歴史のある会社だけに古い資料等が散逸しているとのことで、後は実際の関係者に取材していただくほか無いと、先日わざわざ私の自宅までお電話をいただきました。
私自身、一サラリーマンに過ぎず、本格的な取材は不可能な状態にあります。そこで残念ながら、これまでアップした分で中止したいと思います。
日本人と長い歴史を分かち合ってきた「鯨肉」。なかでも、日水の鯨缶が“戦後”という時代に如何に貢献してくれたか、また生活と身近であったかは、これまでのアップした分の中だけでもすこしは感じて頂けたのではないでしょうか。
これまでご尽力いただきました、日本水産株式会社さんと窓口になっていただいた同社のN氏に深く感謝致します。(1999/11/09)
■おまけ
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『日水鯨缶物語』が中絶してから4年弱。
最近は調査捕鯨の進展によって、筑前でもスーパーなどの店先に鯨肉やその加工食品が出回ってきた。まっこと有り難いことである。
冷凍物ブロックや塩蔵物はまだまだ的高値が続いている。しかし、保存性を高めた加工食品については、結構安価に出回り始めている。1945年の敗戦後、日本人にとっての貴重なタンパク質として飢餓を救う役割を担った鯨肉に触れる機会が増えることは、歓迎すべきことだと、わては思ふ。
そこで、これまで“コレクト”した鯨肉加工食品について列記していこう。北部九州において極めて歴史を誇る有名品から、新たに鯨肉食復権の戦列に加わったニューフェイスまで、多彩なラインナップが市場に顔を揃えている。
◇ ◇ ◇
●日水『鯨焼肉』ミンク鯨赤肉味付
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これは先の『日水鯨缶物語』の主人公である、まさに原点の商品。味的には同系他社商品と比較して唯一無比である。まさに北九州者の味だ。
原料肉については、かつてはシロナガス鯨だったという記憶があるが、どうだったか・・・。 缶全体を覆う黒のカラーリング、商品名の色や書体も当時と変わっていないと思ふ。店頭でも極めて目立つ配色で、一目で「これだ!」と解るほど。往時は缶の厚みが二倍あった。
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さて。この稿を書くために缶を見ていて気づいた。現在わての手元に、
1)2003.8.31
2)2005.12.25
という賞味期限が記された二つの缶があるが、上面の文言が一部変わっているのだ。
旧=鯨は日本の食文化 豊かな資源を大切にしよう
新=ミンク鯨は世界で100万頭以上生息しています。
よりポジティブなスタンスへと変化してきたようである。
●日水・謹製『鯨焼肉』
これは日水鯨焼肉シリーズの新ヴァージョンで、原料が「ひげ鯨」となっている。
ラベルも和紙風の紙に印刷されたもので、“謹製”という惹句と相まって高級志向が漂うアイテムだ。 これは一昨年だったか、北九州市の実家で今は亡き母が買いだめしていたのを、わてが奪い取った。
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筑前では、北九州市のみならず、福岡市のダイエーなどでも目撃した。しかし現在ではあまり見かけない。味については同一だと思うが、もったいないので再度開けて確認する勇気はない。
缶側面に『鯨は日本の食文化』という文言がしっかりと明記されている。賞味期限は2004.4.25。察するに01年から02年の間に、先のスローガン変更があったのだろう。
これは黒缶とは違って量が多い。固形量145gで、黒缶の55gと比較すると3倍弱。黒缶も昔はそれぐらいあった。
●日水・『鯨大和煮』
牛肉の大和煮と同様に、醤油ベースの味。『鯨焼肉』と共に息の長い商品である。
これはまさに今日、近所のダイエーで買ったのだが、パッケージがこれまでの物とは変わっていた。ん~~~ん。前の缶を取っておけば良かった。
皿に盛られた商品写真だった前作から、今回は水面に顔を出した鯨と氷山からそれを見守るペンギンが群れる南氷洋・・・というイラストになって、さらに“シズル感”が増している。
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新しい缶であるが故に、「ミンク鯨は世界で100万頭以上生息しています」というスローガンに変更されている。
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リパッケージについては、「国際捕鯨取締条約に基づいて、(財)日本鯨類研究所が実施した捕鯨調査の副産物です。捕獲海域は南氷洋(WAO)、北西太平洋(WNP)と缶蓋に記載しております」という事情が絡んでいるのかもしれない。賞味期限に、WAO/3 2006.3.10 とある。
●鯨蕪骨粕漬『松浦漬』
北部九州、特に佐賀県の玄界灘沿岸地域の特産である、鯨の蕪骨(軟骨)の酒粕漬、『松浦漬』だ。
現在はイカ刺しで有名な呼子町の松浦漬本舗さんの代表銘柄で、全国的にも名が知れている特産品と思ふ。
酒粕と言えば、正調粕取焼酎か奈良漬けが頭に浮かぶ。古くから捕鯨の地であった松浦の一帯では、酒粕に軟骨を漬け込むという利用法もあり、それは現代も命脈を保っている。
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とにかく、わてが生まれて最初に酒(というかアルコール)に酔った経験というのが、小学校3年の時に初遭遇したこの『松浦漬』を食った時。あまりの旨さに、ガツガツガツ!と一缶ペロリと食べて泥酔、夕食を全部ゲロってしまった。もう、腹一杯詰め込む程、筆舌に尽くしがたい美味だったということですな。
まぁ、そげな想い出の品でもあるが故に、商業捕鯨の禁止によってこの軟骨粕漬の動向が気になっていたが、現在もこうやって買えるとはうれしい限りであります。
●鯨蕪骨粕漬『玄海漬』
『松浦漬』と同じ佐賀県は、呼子町からほど近い唐津市にある玄海漬株式会社さんの『玄海漬』がコレ。この商品もガキの頃から店先に並んでいた由緒ある鯨加工食品だ。
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上画像はお土産用の包み、下はスーパーなどで陳列される缶詰仕様のタイプである。ちなみに『松浦漬』を含むこの3品は、唐津駅前の観光施設で購入。
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さて。お土産用を開いて。久しぶりに食べてみた。ふぅ~~~、酒粕の甘くスーッとする匂いと味、軟骨のぬぅあんとも言えない歯ごたえ! タマラン・・・泣けてくる。エエわぁ~、この味。
やっぱ、旨い!
缶の説明書きに「吟醸調味粕に漬け込んで」とあって、使用しているのが普通酒ではなく吟醸酒の粕なのだろうか? 興味が湧く。
捕鯨禁止、そして普通酒粕の減少・・・その谷間にこの2銘柄は存在している。
●『くじらカレー』
九州の近代捕鯨基地と言えば、日水の北九州市戸畑区、そして本州最西端はマルハの山口県下関市である。
その下関市のマル幸商事さんが発売したのが、この『くじらカレー』。ダイエーにて一箱500円也。
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それにしても、遂にカレーにもなってくれたのかと、涙を禁じ得ない。
発売元のマル幸商事さんはもともとが鯨肉の問屋らしい。最近「鯨肉ソーセージ」などの加工品も製造し、新聞で記事になったりと話題になっていたことが、ネット検索の結果解った。
そのソーセージ、今日探して回ったが 未発見!
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箱の表面、下部にある惹句。「これぞ日本ならではのカレー」。うむ、そうだ、そうである。カレーという外来文化に、ビーフでもポークでもなく、鯨肉という日本ならではの味を主賓に迎えたのだから、この惹句には納得。
捕鯨は明治以前の古くから、日本では行われていた。先の軟骨の粕漬けに見るように、日本人はほとんど余すところ無く、“鯨からの恵み”を賞味したのである。
しかし、江戸末期に日本開国の原因ともなった西欧の捕鯨は、鯨の脂分の獲得を主な目的として、肉などはまったくと言っていいほど食べることは無かった。脂分以外の多くのものを捨て去っていた。近代捕鯨以前に世界の鯨を“乱獲”したのは、いったい誰だったのか?
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◇ ◇ ◇
平成の世に、また鯨肉と日本人の関係の「新たな一頁」がまた開かれるなら、なんと嬉しいことだろふ。
徐々に量販店の棚に姿を見せ始めた鯨肉加工品の数々に、わてはかつて北九州市の戸畑で見た鯨肉店の賑わいを、僅かながら重ねたのであった。
(了)
■2022年注記:外圧、および国内の鯨肉消費の減少により、現在の流通は細々とした状態となった。冷凍ブロック肉にしてもすごい高値が続いている。極めて身近だった食材が、いまでは極めて縁遠いものになった。
【後日談1】文中のマル幸商事製「くじらカレー」に関して、2003年にマル幸商事さんに問い合わせさせていただいたところ、1958年に下関市で開業した大洋漁業(現マルハニチロ)直営の鯨料理店『日新』で、くじらカレーが供されていたという情報をいただいた。意外と歴史あるメニューらしいのだ。しかし北九州市ではくじらカレーを店頭化していたお店も知らず、外食や給食でも食べた記憶はない、家でも母は一度も作ったことが無かった。
ちなみに関門海峡を挟んだ下関市と北九州市の鯨産業については、労作『関門鯨産業文化史』(岸本充弘、2006年、海鳥社)で詳細が分かる。
【後日談2】なお鯨缶について、以下は風説なので確証はないが、ひとつの噂として記しておきたい。
鯨缶は2010年頃まで製造が続けられていたようだったが、インターネットが普及した時代となって反対派から抗議メールが相当数寄せられたらしい。対応に苦慮した結果、国際会議などの状況も踏まえて製造中止を決定したという。
しかし秘伝ともいうべきそのレシピーはある缶詰製造会社に受け継がれて、今も”味”の命脈は絶えること無く続いてるらしい。合掌である。
【後日談3】それと10年ほど前だったか、長崎出身のある漁師の方が経営していた居酒屋で聞いた話。捕鯨禁止は実は鯨油に含まれるある成分がミサイル(ロケット?)の燃料に適しているためそれを独占するために日本に禁漁を押しつけようとしてる、と店主が真顔で宣うのだ。
どこまで本当なのか、いまだに謎である。悪い冗談だったのだろう。
(了)