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意識と全体性|概念を超える。
おつかれさまです。
わたしがシェアしている瞑想法は、ひとときの至高の体験のためではなく、意識の全体性=「いまここ」をいつでもどこでも実感できる、本来の在り方に戻すためのメソッドです。「わたし」という感覚も完全に消える訳ではなく、あらわれたり消えたりします。このことは言葉ではなかなか伝わらないと思うのですが【自我ではそれに気づけません】
自我の枠を超えたとき、そこにあるのは対象のない『気づき』のみであり『あらわれては消えるもの(無常)』がただあります。身体も同じ。実際に瞬間で消えたり瞬間であらわれたりするわけではないですが(・・笑)固定されてずっとあるのでなく流動的であることが実感されます。
例えば、ひとが何かに夢中になる没頭する(フロー状態)ときや寝ているときは、【我を忘れ】ますが、忘れていることに気づけないはず。その後、ふと我に返るのではなく、もともと我そのものが常にあるものではない(幻想)ということが確かになります。
一方、超集中ゾーンは【気づき続けながらも集中できます】。スポーツ選手や音楽家のそれとは深さが違うかもしれませんが、いまここの全体性(無≒無限)をあらわすときゾーンに少し似ているかもしれません。
ひとは感覚を受けてこころが反応しそれを認識するまでが、【実はゆっくり】です。意識が広がれば物理的な時間ははずれるので、その過程が明らかになり【隙がどこにもないことがわかります】。意識をどこにも飛ばさない(狭めない)ここでは、集中とリラックス(脱力)が常で、力むような努力なしに頭が冴え、適切なパフォーマンスが発揮されます。
成長の過程で、感情や感覚を無視したり抑圧する時間が長く続いていれば「ここに意識を置けない状態が長く続いている」ため【自分(全体性)を知る】ことを無意識に恐れ、他の何かでその不安定さを【代償(誤魔化し)】続けることが当たり前になります。
例えばそれが、表面的には良さそうなこと、仕事、家族、遊び趣味、社会貢献・・・。よくなさそうなことはギャンブルや依存症など。いずれにせよそれらのすべてを失ったときに生きていけない感覚がある=何かに依存しないと生きていけない感じがするのは、意識に隙がある(狭い意識領域)からです。
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