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電線絵画展★――デンセン中――

 電柱(でんちゅう)から電柱へと何本も張り巡らされた電線(でんせん)――街を縦横無尽(じゅうおうむじん)に走る電線――見慣れた光景だから、気に留めることもない。現代人が景色を眺めるとき、電線・電柱を無意識に外しているか、景観のジャマだと思いながら見ているか、そのどちらかだろう。あるいは、そこに故郷の原風景をみるか。いずれにせよ、そんな電線がなければ、電気も電話も使えないのだ。

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カタログから 海老原喜之助《群がる雀》 昭和10年(1935)頃 東京国立近代美術館

 「電線絵画展-小林清親から山口晃まで-」を、練馬区立美術館(東京都練馬区貫井1ノ36ノ16)で見た(2021年4月18日で終了)。電線・電柱が絵画化された作品を、明治初期頃から現代まで時代ごとに見ていくことで、電線・電柱が果たしてきた役割、そして変貌してきた都市・東京の姿を見つめ直す展覧会である。

電信柱が絵の主役!?

 電柱は、電話などで使う電信線が架かった電信柱(でんしんばしら)と、各家庭などに電気を送る電線が架かっている「電力柱(でんりょくちゅう)」と、その両方を備えた共用柱で構成されている。 

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カタログから 歌川芳虎《新開名所 日本橋》 明治6年(1873)頃 浅井コレクション

 日本において初めて、電報(でんぽう)モールス信号をやり取りするための電信柱が本格的に設置されたのは、明治2年(1869)。横浜と東京を結ぶ電信線の整備が最初とされ、電話事業が始まるのは明治23年(1890)のこと。

 明治時代に入り、電信柱が街に姿を現すと、その物珍しさに、浮世絵師(うきよえし)たちは、こぞって絵の中に描き込んだ。幕末に活躍した奇才絵師・歌川国芳(うたがわ・くによし)の門人たちは、文明開化の象徴としてよく描いた。とりわけ、河鍋暁斎(かわなべ・きょうさい、1831~1889は、国芳譲りのユーモアで、電信柱を堂々たる主役のように描いている。

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カタログから 河鍋暁斎《月次風俗図 六月》 明治7年(1874) 河鍋暁斎記念美術館

 《月次(つきなみ)風俗図 六月》は、河鍋暁斎が即興で描いたもので、筆勢鋭く、夕立(ゆうだち)で街行く人々を驚かせる雷と、電信柱という組み合わせの妙が面白い。自然現象の雷、人工的な電信柱を対比したのか、雷神にも恐れぬ立派な塔と思ったのか、その発想力に驚かされる。

 最後の浮世絵師と呼ばれた小林清親(こばやし・きよちか、1847~1915)も、東京の風景の中に、電信柱を描き込んだ。ただ、西洋画に学んだ小林清親が描く電信柱は、遠近法によって画面に奥行き、リズム感を生むために配されているようにみえる。

 日本で蒸気機関車による鉄道が開通したのは、新橋ー横浜間で、明治5年(1872)のこと。小林清親は《高輪牛町朧月(おぼろづき)景》という作品で、海面を走るような蒸気機関車と、その頭上を延びる電信線を描いている。それは情報の伝達スピードとともに、人間の移動も速くなった近代化への驚きと期待感の表れといえよう。

電力は中央から

 日本で初めて、電力柱と電線による本格的な電力供給が始まったのは、明治20年(1887)日本橋茅場町に火力発電所が設置され、初の電線使用が始まった。皇居に電灯が入ったのは、その2年後。明治23年(1890)までには皇居を中心に電燈局(小さな火力発電所)が設けられ、電力供給は皇居を中心とした官庁街から始まった。その例外は、電力消費地としての、浅草や吉原遊郭であった。

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カタログから 揚洲周延《上野公園の夜景》 明治28年(1895) 電気の史料館

 営業用として電気供給が始まったのは、明治23年(1890)、浅草に完成した12階建ての「凌雲閣(りょううんかく)」(高さ52メートル)。日本初の電動式エレベーターが設置され、高所からの眺めを売り物にして人気を集めた。ただし、エレベーターは故障続き。のちに関東大震災で倒壊して被災の象徴となった。

電信柱と情報戦

 電信線を最初に日本にもたらしたのは、黒船と呼ばれたアメリカ海軍艦隊を率いて来航したペリー提督。日米和親条約の締結のために2度目の来日をしたとき、米国大統領からとしてモールス信号機を幕府へ献上した。その実験が嘉永7年(安政元年・1854)、横浜で行われている。

 明治10年(1877)、西郷隆盛らによる西南戦争が九州で起こる。明治政府軍は、東京―長崎間や九州各地に張り巡らされた電信線を利用し、戦局を有利に導く。電信柱が倒されるなどの妨害行為もあったが、情報戦が軍事面で重要なことが強く印象付けられた。 

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カタログから 小林清親《陸海軍人高名鑑 第一旅団長 乃木希典君 明治28年(1895) 練馬区立美術館寄託

 西南戦争にも従軍した乃木希典(のぎ・まれすけ)は、明治27年(1894)に起こった日清戦争で活躍、その後の日露戦争でも名を挙げた。小林清親は、乃木希典の背後に電信線を敷設する兵隊の姿を描いており、電信線の敷設拡大が戦況を有利に進めることが広く認識されていたことが分かる。

電柱は近代化の象徴

 電線・電柱が全国各地に広まっていくと、町や村に電柱が立つことは、近代化された象徴として受け止められた。小林清親が富士山を描いた作品では、富士山の側に電柱がしっかりと描き込まれていて、あたかも自然を制したかのようで、誇らしげにさえみえる。

 東京・銀座に生まれた洋画家・岸田劉生(きしだ・りゅうせい、1891~1929)にとって、電柱は慣れ親しんだ光景であった。新興住宅地として造成される代々木を描いた《道路と土手と塀(切通之写生)》(本展不出品)では、露出した赤土の上に電柱の影が差し込んでいる。同じ景色を違う角度から見た《代々木附近(代々木附近の赤土風景)》(1915年)では、切り拓かれた自然の中に、人工物である電柱が存在感たっぷり。丘、電柱の象徴的な形に、自然を造形する”見えざる力”を描こうとしたのだろうか。

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カタログから 岸田劉生《窓外夏景》 大正10年(1921) 茨城県近代美術館

 それは、電柱を中央に捉えた《窓外夏景》でより一層、象徴的だ。静養のために移り住んだ神奈川県藤沢市で描いたものだが、同じ場所で制作された《晩夏午后》(1923年)に電柱がないのは、関東大震災の影響といわれる。

東京と電力

 大正12年(1923)、関東大震災が発生し、東京も大きな被害を受けた。

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カタログから 西沢笛畝《大正震火災木版画集「黄昏の日本橋」》 大正12~13年(1923~24) 浅井コレクション

 電柱が倒れ、電線がたるんだ光景が、画家たちによって描かれている。2011年に発生した東日本大震災でも、東京では電柱が揺れ、電線が波打つ光景が見られた。その後の計画停電では、電気の大切さと都市の脆弱性を痛感した。

 関東大震災から復興した東京の姿を象徴するかのように、そこに堂々たる電柱を描き込んだ洋画家・朝井閑右衛門(あさい・かんえもん、1901~83)。だが戦後、神奈川県横須賀市に移ると心境の変化か、複雑に交差する電線ばかりを描くようになる。東京大空襲から再び復興した東京は、高度経済成長の一方で、環境問題を抱え、健康意識も高まる。電線・電柱は、そうした時代を生きる人々の心象風景をも映し出してきたのだろう。

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カタログから 山口晃《遊説電柱》 2012年 個人蔵

 現代美術家・山口晃(やまぐち・あきら、1969~)は「電線は、絵画の要素の一つである”線”」と話す。石畳のある欧米の諸都市と比べ、雨も多く、電線の地中化(無電柱化)が進まなかった日本。ただ、電線が、もはや日本の原風景であることは紛れもない事実であろう。 

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