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小説『だからあなたは其処にいる』第ニ十ニ章 此処から飛び出します



前話・第ニ十一章はこちらです
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【冀州出版社の人々】

岸田一平=僕
五年間のアルバイト期間を経て、やっと社員になった33歳。小柄で気弱。とても素直な反面、流されやすく気が多い。そんな性格が災いしてトラブルの多い人生を歩んできた。好きなことは寝食を忘れて打ち込む。新入社員の富頭と交際中。


冀州透子きしゅう とおこ
冀州出版社の三代目。2000年代以降のデジタル化の波に押され苦戦を強いられている。祖父や父の思い出が詰まった冀州ビルから引っ越さなくてはならなくなり、岐路に立っている。まずは自らの外見や話し方から正していこうと奮闘中。


富頭賢治ふとう けんじ
小野田海人の勧めもあり、冀州出版に入社した新入社員。入社してひと月で先輩編集者と意見を闘わせるパワーがある反面、恋には愚直。岸田一平を好きになり過ぎて、嫉妬深くなってしまった。


小野田海人かいと
一年目の新入社員。22歳。清潔感あふれる外見と強い正義感が持ち味。会社から徒歩三分→徒歩一分の画廊の息子。会員制の高級クラブに毎日入り浸り、オーダースーツや靴を纏うも、それが当たり前で主張が強いわけではないため嫌味がない。職場の顔とは別の顔も。


清らかな水を汚すのは人間




第ニ十ニ章

今日も忙しい!頭痛腹痛腰痛あるのが当たり前。そんな毎日でも、僕には賢治さんがいる。職場に愛がある幸せ。働くモチベーションが上がるなぁ。

冀州編集長が外出先から戻ってきた。小野田海人が訊ねた。

「編集長、大丈夫ですか。随分とお疲れのご様子ですが」

「ありがとう。私は大丈夫」
家から持ってきた飲み物を開け冀州透子がゆっくり飲み込む。ハーブティーの香りがふわりと広がる。


「みんな、忙しいところ悪いんだけど聞いてもらいたいの。あー、うーん。どこから話せばいいのかしら…。結論を先にお伝えします。冀州出版社は、冀州ビルから出ます。引越ししなきゃいけないの」

「えっ?なんで急に」
須藤廣子の一言は、その場にいたほとんどの者が持つ疑問だった。

「亡くなった管理員のお爺さんは私の叔父で、冀州ビルの家主だったんだけれど…。遺言書に、遺産は全て愛人の娘に遺すと書いてあったのよね。愛人がいたことも娘さんがいたことも誰一人として知らなかったから、葬儀は修羅場だったわ。まぁ、そんなわけで申し訳ないのだけれど、一か月以内に此処ここを出ます。引越先は、商店街の空き店舗よ。」

「編集長、愛人の娘さんが冀州ビルから出ろって言ったんですか?」
賢治さんがストレートな質問を投げた。

「そうなの。うちは家賃も半年遅れで払っていたし…」
編集長の悪びれることのないものの言い方は、その場にいた人間から表情を奪った。

能面のような顔になった賢治が、小野田海人に言った。
「もう、おしまいなんじゃないかしら…」
海人は苦笑いを浮かべ、手元の仕事へ戻った。

編集長は、従順なパートさんやアルバイトさんを呼ぶと、書庫の片付け方を簡単に指示し、そのまま編集室を出ようとした。

僕が一緒に行こうとすると、服の背中を賢治さんに掴まれ引き戻された。

「一平さんは、やりかけの仕事がたくさんあるでしょう?」



「そんな家族のゴタゴタに、また巻き込まれるの?いい迷惑よ」
吐き捨てるように言う女がいた。

黒目が上の方へ上がり切ったその瞳に憤りが強く現れている。僕は少しずつ後ろ歩きで移動し、その人が視界に入らないようにした。

「黒川さん何か言った?質問があれば今ここで言ってもらいたいわ」
編集長がいらだちを隠すことなく言う。

「いえ、何も。引越先は綺麗に片付いてますか?引越し業者を頼めるのでしょうか?」

黒川の静かな口調の底には、たくさんの棘が埋め込まれている。

怖いな、この人。黒川さんって、今まで何処で働いてたんだろう。美術部かな。経理部の人かな。確かに僕みたいなポンコツ人間から見ても、編集長は雑すぎ。経営手腕に欠けるうえ、社員への協力の求め方もわかっていない。萩原さんがいた頃なら、みんなの不満を受け止めてくれたし、冀州編集長が出来ないことを引き受けて、みんなに仕事をふってくれた。あの頃は会社は牢獄。仕事なんか地獄だと思ってたのに、結構あれはあれで幸せだったのかもしれない。今のほうが霧の中に迷い込んでしまったみたいだ。



冀州編集長が婦人部の編集室から出ると、タガが外れたかのように口々に不安を言い始める。

「下手すりゃ、一本化した雑誌は第一号が最終号かもしれませんね」

「海人、言い過ぎ。そうならないように、うちらは頑張るのみ!別にビルにいないと雑誌創りができないわけじゃないでしょ。そう思うよな?一平も」

パン!

須藤先輩から肩をたたかれるのって、まだ慣れないなぁ。女の人の力じゃないんだよ。

僕は、編集長に同情の気持ちも反発もない。今までだって、何かに抗ったことなんてないし。親のコネで入社した冀州出版社がなくなったからといって、死ぬわけじゃない。僕を毛嫌いしている父親が、毎月の仕送りだけはしっかり続けてくれてる。僕は生きていけるけど…。みんなは、どうなっちゃうんだろう。



長年の鬱積したものを抱えきれなくなっているのは、なにも黒川直子だけではなかった。

社員をはじめパートさんやアルバイトさんも冀州透子の業務連絡が遅いのには慣れていた。しかし、自分達の働く場が、冀州ビルという名であるのに冀州透子のものではなかったことに驚く者も少なくなかった。毎月の給料が国の定めた最低賃金とさして変わりがない者でさえ、古きよき時代を体現した豪奢なビルが安心感を与えてくれていたのである。

先が見えない中でも、人は働き続ける。食べていくため。夢を形にするため。なにかを忘れるため。そうやって生きるために。


お昼休みに婦人部の編集室で持参したお弁当を食べるのは、美術部から手伝いに来ている塩野菜々と黒川直子だけだ。他の者は、営業の合間に出先で済ませたり、近くの食堂や蕎麦屋などで昼食をとる。

二人になると、ついウワサ話に華を咲かせてしまうのは女の性だろうか。吉村春瑠も一緒に食べていた頃なら、ここまで冀州家のことを詮索することもなかったのだが。

「吉村さんがいなくなって、私ホッとしてるんです。彼女は仕事だけを黙々とこなす人で、少し話しにくかったから。」

塩野菜々が言うと、黒川はアスパラガスの肉巻きを食べながら頷いた。塩野は話し続ける。

「黒川さんがボソッと言うのを、わたし聞いちゃったんです。そうだそうだ!って思いました。けど、『また』ってどういうことですか?」


「古い話を今更言うのもねぇ…。塩野さんは、入社して二年くらい?なら知らないわよね。夜逃げってわかる?」

食事を終えた黒川は、ハンドクリームを手に擦り込みながら言った。塩野の困った表情を見て、更に話を続ける。

「冀州編集長のお父さんは、一時は羽振りが良かったのよ。芸能人と食事したり旅行したりもしてた。透子ちゃんは、このあたりじゃ買えないブランドのお洋服を着て、東京のカリスマ美容師に髪をカットしてもらってた。私にないもの全て持っているように見えてね。派手な暮らしをしてたから、みんな憧れたわ。」

「今も華やかですよね、冀州編集長って」
デザートの種なしブドウを食べながら塩野が言う。

「でもねワンマン経営がたたって、此処は倒産しそうになったの。切った手形も小切手も払えなくなったことがあるのよ。うちの父さんが銀行の掃除をしてて聞いたことだから確かなの。突然、収入が絶たれることがどういうことか、冀州家の人ってわかってないのよね。透子さんは二代目さんと一緒に此処を離れてる。親といっぺん夜逃げしてんのよ。」


聞くんじゃなかった……。後の祭りである。

編集室へ入ろうとしたら、黒川直子と塩野菜々の声がして好奇心から立ち聞きしてしまい、僕は吉村さんが退職したくなるのがわかる気がした。

言った本人はスッキリして気が済むだろうけど、勝手に話された人の気持ちや信用は?女の人のこういうところが苦手なんだよなぁ。

トイレから戻ってきた賢治さんが、僕の頭の上で丸を作った。

「わたしの天使さん。午後からもがんばりましょ」

賢治さんの可愛さ。優しさ。キミは小悪魔だよ。僕はとっくに魂を明け渡しています。


〜続く〜




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