小説『だからあなたは其処にいる』プロローグ〜第一章 僕の彼女はパーフェクト
プロローグ
「そんな言い方は…。あんまりです……。」
拳を握りしめて立つ岸田一平の肩と目が揺れる。
「もう一度、会議する必要なんてあるのかしら?」
冀州透子の鉈は、更に一平の羞恥心を捻り続けた。
コネ入社と陰口を叩かれながら五年。やっとこの企画を通した一平に、周囲のデスクから憐れみとも同情とも判断のつかない溜息が漏れた。
僕の呼び名は、ずっとアルバイトクンだった。二年目になっても、社員用入り口で管理員に呼び止められた。
「何部に用なの?許可証ある?」
その度に僕は、社員証をドヤ顔で見せつけた。管理のお爺さんはさして悪ぶれた様子もなく、右手でどうぞと促すのだった。朝からイライラして入社するのが、僕の一日のスタートだったんだ。
一ヶ月前、僕はある会議からヒントを得て初めて一人で企画を立ち上げた。A4で二十五枚、二万文字の企画書は暫く編集長のデスクで灰皿置きになっていた。
また無視か…。二週間経つ頃には、うす汚れてく企画書が哀れで、灰皿の下からこっそり抜き取り持って帰りたくなった。
ある日の夕暮れ時、編集長のデスクには窓からオレンジの光が燦々と注がれていた。
「これ、再来月の見開き二ページで、一平やってみる?」
冀州編集長から声をかけてもらえたとき、僕は地に足がついていなかった。
帰りの夕焼け雲がどんなに美しかったか。
家族にも恋人にも、あの日の空の輝きだけは伝えようがない。警備員のお爺さんにさえ馬鹿にされてきた僕に、初めて太陽が微笑んでくれたんだ。
第一章
一
「あなたのご立派なお母様を基準にしちゃダメよ。世の中の99.9%は、一万円を手軽なお値段だなんて思ってないの。あなた、婦人雑誌なめてんの?」
「僕は男だから…」
「編集に男とか女、関係ないわよね」
冀州のデスクから煙草の匂いがして、頭が割れそうだ。
「あなたが、このクリームを使ってみたいって言った時、やっと土に埋まったままのタネが芽吹いたと思ったの。使い心地はどう感じた?」
「や、はい。ベタベタするのかと思いましたが、浸透が速くて驚きました。翌朝、鏡を久しぶりに見たくなったことに自分で苦笑いしたりして…」
「そう!そこよ。だからあなたは其処に在るの。良いクリームは、性も年齢も関係ないのよ。良い品を使うとね、自分自身の変化に素直になるのよ。不思議でしょう?あなたの横顔、とても美しくなったわ。もう一度、書けるわね」
底じゃなかったのか。其処彼処のソコだ。底辺思考からまだ抜け出してないんだな、僕は。国語の基礎からやり直しだ。
ここに、そうスタートラインに、やっと立てたんだから。
ニ
「底辺って随分連発してたのと、私への苦情はいただけないわね。アカウントこど消しちゃうのほうが、あなたの首が飛ばないわ。これから、あなたのアイデアと文章は誌面に掲載されるのよ。電子版にも当然載せる。それなのに、あのお粗末な日記に、先にアイデアを出されちゃ困るのよ。あなたの癖のある言葉選び、文末の決まらなさ、この個性が先に浸透してたら、誌面に載せたときのインパクトが薄くなっちゃうのがわからないの?」
バレてたのか……。ぁぁああ!おしまいだ。編集長の服選びや胸のことまで読まれてしまったのか?ザックスなんて、この仕事が決まった時にやめときゃ良かったんだ。
「あーあの…、まさか全部に目を通したわけではありませんよね?」
汗が頭のてんこすから噴き出す。手汗が持っている資料をどんどんふやかしていく。
「もちろん読んだわよ。卑屈なのは別にいいんだけど、せっかくなら誌面であなたの悩みを打ち明けて、臨床心理士さんや読者と語り合ってみればいいのに」
「い、嫌です!恥をかくのは懲り懲りなんです」
「別に公開処刑じゃないわ。あなたの悩みは読者も抱えている悩みそのものなの。勿体ないじゃない。ひとりで抱え込んでちゃ」
編集長の言うことが時々わからないぞ。勿体ない?読者も同じ?そうだろうか、僕の独りよがりが仕事になるってことなのか?
「それと、私の外見については直接ここで教えてね。身だしなみは大事だもの。20年前の調子で寄せてあげるのは確かに時代遅れよね。いい視点だと思う。あなたも気をつけて。もう、アルバイトクンじゃないんだから」
ウィンクする日本の40代女性を初めて見た。僕のヴィーナスが誕生した瞬間だった。
三
「何ぼんやりしてるの。早く仕上げなきゃ。入稿まで18時間しかないよ」
同期の彼女が小声で教えてくれた。ご両親がタイ人だが、日本生まれ日本育ちのプアンは僕よりはるかに美しく正確な日本語表現ができる。
「私が家で手伝うから。残業なんてせずに早く帰ろうよ」
僕が編集長に見惚れたのを見透かしたように、プアンは帰宅を急かした。
僕のパソコン画面では、30分経つのにたった五文字しか進んでいなかった。タイトルも見当がつかない。絶望した。やっぱり僕は底辺だ。
「編集長、家で仕上げても構いませんか。出来次第、データ送りますので」
「それは構わないけれど、一人で大丈夫なの?」
「あ、はい。やってみます!」
プアンは既にバッグを手にしている。向かいの席の上司、萩原倫行に声をかけた。
「編集長にお伝えください。私、何軒か取材先に寄って、そのまま帰ります」
「ん。お疲れ。あんま無理すんなよ」
パソコンの画面を見たまま、萩原は労いの声をかけた。
四
駐車場へ行くと、プアンがカンカンになって怒っていた。
「一平ってさ、ほんっと年上が好きよね。なんなの、あの目。仕事中なのに最低!!」
「誤解だよー。叱られ過ぎてぼんやりしてしまっただけ。編集長なんて、君より一回りも上なんだから。ヤキモチ妬くなんておかしいよ」
誤魔化せるはずだ。こういう時は謝らないほうがいい。謝れば認めたことになる。今までずっと言い訳してたら大丈夫だったし。
「今回の企画が誌面に載らなかったら、パパとママが別れなさいって。もう私33歳になる。赤ちゃんだってほしいし。将来のこと、一平は一度も話してくれたことないんだもの」
今にも泣かんばかりのプアンが、子猫のような瞳で僕を見上げた。
「えぇ…。会社の駐車場で話すことじゃないだろ」
「もう!だいっ嫌い!一人で仕事しろ!」
カツカツという音が駐車場にこだまする。
裏側が赤いハイヒールなんか履いて、よく仕事できるよなぁ女は。
ご両親とプアンが、ここまで怒るのも無理はなかった。全ては僕の蒔いた種だ。
「運転、大丈夫?僕が変わろうか?」
「ううん。ごめんね。泣いたりして。早く家に帰って仕事の続き頑張ろうね」
あーまただ。僕の仕事をプアンは自分の仕事にしちゃうんだよな。これも僕が才能ないからだけど。
五
「ねぇぇ。一平はどう思う?私さ、前から思ってたんだけど、アマチュアやセミプロのライターさんてさ、なんで無料で全力出しちゃうの。あれじゃ、プロになったときにアイデアのストック0だよね。気力体力も残ってないよね。だから、みんなギブアップするのが早いんだと思うんだ」
「相変わらず、プアンはきっついこと言うなぁ。僕ら編集者や世間の目が厳し過ぎるから、心身を壊して辞めちゃうんじゃないの?そうやってなんでも本人のせいにしていいと思わないけど」
「バイトだった一平にはわからないのよ。あっ…ごめん…」
ノートパソコンから働く手が離れ、嫌いな桃色のネイルが僕の頬を包んだ。
「ほんと、あまちゃんなんだから一平ちゃんは。でも、そこが好き」
褒められている気はしないけれど、この企画を仕上げてくれているのが彼女なんだから従うしかない。
その気はなかったのに、僕は桃色プアンに身を任せた。
-続く-
良かったら、続きもどうぞ。
2024年9月16日 07:00公開
第二章 結婚なんてできないよ
2024年9月17日 01:00公開
第三章 さよならプアン
2024年9月18日 01:22公開
第四章 新入社員 小野田海人
2024年9月18日 11:55公開
第五章 僕の初依頼
2024年9月19日 22:41公開
第六章 小野田VS須藤
2024年9月20日 11:00公開
第七章 素顔のキミに会いたい
2024年9月21日 14:30公開
第八章 父と息子、そして母
2024年9月22日 12:00公開
第九章 濁流に飲み込まれる
2024年9月23日 22:00公開
第十章 子どもたちと共に
2024年9月24日 12:00公開
透子と春瑠
2024年9月25日 10:30公開
第十ニ章 隣の女の芝は青い
2024年9月26日 19:00公開
第十三章 バブルの功罪
2024年9月27日 7:30公開
第十四章 ブルーグレーの瞳
2024年10月12日 8:57公開
最終章 三回汽笛を鳴らす刻(とき)