小説『だからあなたは其処にいる』第十五章 僕が教育係⁈
前回のお話です。良かったらどうぞ。
第十五章
一
「ちょっとみんな手を止めて。小野田君の知り合いで、とてもセンスのいい人がいると聞いて、先週、萩原さんと面接したの。うちの雑誌を愛読してくれてて、とてもコミュニケーションスキルの高い青年よ。相談なしに決めて申し訳ないのだけれど採用しました。今日から試用期間になります。まもなく来るので、忙しいところ悪いけど色々教えてあげてね。」
冀州出版の婦人部の面々は固まったまま、編集長の話を聞いた。
「ちょっと待ってください。今日からって、誰が教育係になるんです?私は無理です。」
須藤廣子が迷惑そうに言った。
「僕が教えたいところですが、僕自身がまだ新人ですからね。誰もついてあげないんじゃ気の毒です。岸田さんが適任じゃないですか、優しいから。」
小野田君なに言ってるんだ?やめてくれよ。自分のことで精一杯なのに。須藤先輩もずるいよなぁ。えぇっと、なにか言わなきゃ。断る理由断る理由。パッと言葉が浮かばない…。
ニ
「そうよね。みんな忙しいものね。一平、今日の営業は私が引き受けるから、新人お願いできる?」
「あの…僕も新人みたいなものですが大丈夫でしょうか。」
教える…そんなことしたことないよ。いつだって僕は教えられる側なんだから。嫌だなぁ…。
「まずは雰囲気に慣れてもらって。新入りが手持ち無沙汰だったら、最終号の読者アンケートに答えさせて。あとは、一平と書庫の整理ね。」
「はぁ、はい。わかりました。」
こういう面倒なことは、どうしたって一番仕事ができない僕にまわってくるんだ…。どんな人だろう、新人君は。やっぱり編集長は急に仕事をふってくるんだよなぁ。随分と丸くなったけど、ほうれんそうが雑なのは変わりない。
三
古いアナログの丸時計がニ時になった時、新入社員が萩原と共に編集室に入ってきた。
みな一様に軽く挨拶するだけで仕事に戻る。
「富頭賢治と申します。よろしくお願い申し上げます。」
吉村春瑠が言った。
「みんな、こう見えていい人だから。忙しいときの編集部はいつもこうなんです。ごめんなさいね。」
「いえ。お気遣いありがとうございます。お邪魔しないよう気をつけます。」
「すまんな。一本化で、てんてこ舞いなんだ。だから、お前さんが此処に来たってわけだな。」
煙草をふかしながら上機嫌で萩原が言った。
四
「すみません。お腹の調子が悪くて。」
岸田一平が編集部に戻ってきた。
誰もが最終号から、一本化される新しい婦人雑誌のことで頭がいっぱいだ。一平の体調を気遣う人は、萩原以外いなかった。
みんな、まぁ無視だよな。これには慣れてる。アルバイトクンだったときに散々やられたから。編集長も新人教育なんて急に言わないでほしいよ。胃腸がもたないよぉ。
五
「大丈夫ですか?」
なっなっなんでーーーわーーー!!!!!
あの時のキミが、どうしてここに???
「お前、しょっちゅう腹痛おこすなぁ。一度、病院行ってこいよ。こちらが、新入社員の富頭君だ。」
萩原が笑って紹介した。
五
「大丈夫…で、す。」
あの日から、ずっと探してたんだ。やっと会えた!!!
「一平、どうした。またぼんやりか。緊張することないぞ。お前もよく知ってる人だ。」
「萩原さん、僕この人を知ってるんですか?」
「お前は相変わらず人の顔を覚えられんのだな。ケンジさんだよ。ほら。何度も会ったことあるだろう。」
六
なっ!!ケンジさんとは声が全然ちっ違うし、顔もちがーーーう!!ケンジさんは、瞳が外国人みたいだったのに。
ここにいるのは、あの日、僕の隣に眠ってた美女じゃないのか?そっくりなのに。
「岸田さん、すみませんがコーヒーの淹れ方を新人さんに教えてあげてください。私、もうすぐ退社させていただくので。」
吉村春瑠が、慌ただしく荷物をまとめながら言った。社員からパートに変わり、時間が来たら即退社している。
「一平、俺にも淹れ方を見せてくれ。此処をリタイアしたら純喫茶を始めるからな。」
萩原がそう言うと、キリキリした空気が流れていた空間にどっと笑いが起きた。
七
「給湯室はこっちです。フロア共有になってます。他の会社は入ってなくて、四階は全部うちが使ってるんですけどね。」
僕の混乱なんか関係ないみたいだ。ケンジさんはメモばかりしている……。
「借りてるってお話ですが、このビルは冀州ビルって入り口に…。あっ、余計なことでした。すみません。」
富頭賢治が、萩原を見て言う。
「ケンジ君、地元どこだ?」
「福岡です。」
「いいところだよな。」
換気扇の下で煙草を吸いながら、萩原は立ち昇る煙を眺めている。
「このビルは冀州出版の創始者が建てたものだが、バブルのあとに売りに出されたんだ。透子ちゃん、いや編集長が会社を継いだ時に此処でどうしても働きたいって言って。高いテナント料を払って借りてるわけだ。」
「えっ。借りてるんですか?」
知らなかった…。借りものだったんだ…。
「一平、お前は新入りじゃないだろうが。まぁ、わざわざこんな話をする機会もなかったしな。」
八
「ケンジ君、自分で言うかね。俺から話そうか。」
「僕が自分で話します。」
二人共なんなんだろう。ケンジさん、顔が険しいな…。
「あの…岸田さん、アダムで僕が働いていたことやゲイってことは、会社では話さないでほしいんです。お二人は偏見をもってないから、僕もこうして安心してお話できます。でも白い目で見る人もいますから。よろしくお願いします。」
九
あゝ。そうだよな………。
「もちろんです。口外なんてしないから、安心して働いてください。」
岸田一平の返事に、富頭賢治の表情が夏の朝のように輝いた。
賢治の手がクルクルと回る。コーヒーミルで豆が砕かれた。
ありふれたコーヒーフィルターを通った豆と湯が合わさり、やがて部屋全体に芳醇な薫りが広がっていった。
カポコポコポ。
十
「お待たせしました。コーヒーどうぞ。富頭と申します。よろしくお願いします。」
ケンジさんは、こんな鬼の棲家でもなんなく溶け込んでしまうんだ。僕が五年かかったことを、ほんの数時間で…。
「私は須藤。よろしくね。」
「佐藤です。よろしくお願いします。」
「滝澤です。よろしく。」
「鈴木です。クセがみんな強いけど頑張って。」
「僕は小野田。」
「知ってます!」
富頭が笑いながら応えていた時、口々に声があがった。
「このコーヒーうまっ!」
「とっても美味しい。誰が淹れたの?」
「僕です…。」
富頭が遠慮がちに話すと、萩原が言った。
「豆は給湯室にあったやつだから、淹れ方が上手いんだろうな。な、一平。」
十一
「はいはい。僕はどうせコーヒーも上手に淹れられませんよ。」
僕はひとつもカッコいいところを見せることができない。羞恥心でいっぱいだよ…。
「一平、僻むな。お前にはお前のいいところがあるだろ。」
萩原が、モレーンとミセスサロンの最終号見本を見ながら言う。
僕にいいところなんてあるんだろうか。
「ありますよ。岸田さんには岸田さんだけの武器が。」
小野田が言うと、みなが黙ってうなづいた。
武器…。そんなものどこにあるんだろう。
〜続く〜
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